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セレクションとは、「選ぶ」作業ではなく「捨てる」作業

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大里さんのエントリー「戦略とは捨てること」を読んで、1年半前に私が写真のメルマガ「プロェッショナル・サンデー・フォトグラファーへ!」の「第五の心得」で書いた記事を思い出しました。

写真の場合も、作品セレクションで一番必要なことは「選ぶこと」ではなく、「捨てること」です。この点に限れば、アートの世界もビジネスの世界と全く同じと言えそうです。

ちょっと長くなりますが、「第五の心得」の要約をそのまま引用します。

---(以下、「プロェッショナル・サンデー・フォトグラファーへ!」第34号から引用)---

●第五の心得とは、「自分の作品に一番厳しい批評家は自分である。作品セレクションが撮影以上に大切と知っている」です。

●「写真はパッションだ」ということで、衝動の赴くままに撮影し、一切セレクションせずに、「これがオレの表現したかったことだ!」と発表しても、素晴らしい作品にはなりません。

●一つ目の理由は、様々な技術的未熟さや企画段階の未熟さにより、「自分はいい」と思っていても、作品としての完成度が低いからです。

●二つ目の理由は、写真はその人にとっての真実、言い換えると自分そのものを写しますので、自分自身が自分の作品に対して厳しくしなければならないからです。

●言い換えれば、セレクションとは、「選ぶ」作業ではなく、「捨てる」作業です。作品の完成度は、いかに不十分な作品を捨てるかにかかってきます。

●プロフェッショナル・サンデー・フォトグラファーには、自分の作品に対して厳しい姿勢を求めらます。

●写真を鑑賞する立場でセレクションを考えるとよりセレクションの重要さがわかります。

●例えば、自分が写真展に行ったときのことを考えてみてください。興味が沸かない作品は素通りしますよね。その作品を何回も眺めて何故自分が評価できないかを徹底的に考えたり、写真展会場にいる作者に声を掛けて作品の意図を理解できるまで問いただすことは、通常行わないと思います。

●自分が写真展を開催している場合も同じです。あなたの写真展の来場者は、あなたの作品に興味が沸かないとそのまま素通りします。

●人は、自分自身は興味が沸かない他人の作品には無関心であるにも関わらず、自分が作品を発表する立場になると他人に自分の作品に最大限の関心を持って欲しいと思ってしまうのです。

●マザー・テレサは、「愛の対極にあるのは、憎しみではなく、無関心である」と語りました。人は評価しない作品に対しては決して悪口は言いません。単に無視するだけです。

●だからこそ、自分自身が一番厳しい批評家として、自分の作品をセレクションしなければならないのです。

●しかし、プロフェッショナル・サンデー・フォトグラファーは、他人や市場の評価を作品セレクションの基準とすべきでないのです。何故でしょうか?

●職業的プロフェッショナル・フォトグラファーの場合、クライアントの要求・要望・市場の評価が写真セレクションの絶対基準です。何故なら写真はお金を得るための手段だからです。

●一方、プロフェッショナル・サンデー・フォトグラファーにとっては、写真はお金を得るための手段ではなく、自分自身の表現手段であり、写真評価軸はあくまで自分自身の厳しい作品選定基準です。市場評価を作品セレクションの基準にすべきではないのです。

●ゴッホは、生前は作品は全く評価されず極貧の生活を送っていました。評価されるようになったのは、死後10年以上経ってからです。しかし、死の直前の2年間の素晴らしい作品を見ると、創作活動とその時点の市場評価は全く別物であることがよく分かります。

●自分の厳しい選定基準をクリアしていれば、市場が受け入れなくても、それは問題と考えるべきではないのかもしれません。

●以下は英国の宰相・ウィンストン・チャーチルの言葉です。

 誠実でなければ人を動かすことはできない。
 人を感動させるには、自分が心の底から感動しなければならない。
 自分が涙を流さなければ、人の涙を誘うことはできない。
 自分が信じなければ、人を信じさせることはできない。

●セレクションの一つの基準は、自分自身が心の底から感動しているかどうか、かもしれません。

●逆説的に言えば、セレクションは必要悪と言えます。撮影の段階で、作品の最終イメージが確定し、かつその通り作品を仕上げる実力を持っていれば、撮影した時点で作品は出来上がっている筈であり、セレクションは不要です。 ⇒加納典明の事例参照

●しかし、残念ながら我々は必ずしも写真の天才ではありません。また、プロフェッショナル・サンデー・フォトグラファーに対しては、他人は誰も厳しいことを言ってくれません。

●そこでセレクションという作業が必要になってくる訳ですが、何が写真のセレクションを難しくしているのでしょうか?

●それは、自分自身の作品への思い入れ、被写体への思い入れ、迷い、エゴ等です。

●実は、自分の作品に一番甘いのは自分なのです。

●プロフェッショナル・サンデー・フォトグラファーは自分の作品の隅々に責任を持たなくてはいけません。一箇所でも納得できない場所があれば、それは作品として世の中に出すべきではありません。

●セレクションは、撮影した写真作品から技術的未熟さやエゴを洗い流すために必要な作業である、と考えることも出来ます。

●参考までに私が心掛けている方法は以下の方法です。

・今、自分が死んで、作品だけが残った。
・人々はその作品で自分という人間を評価することになる。
・その場合、自分は、ここでセレクションした作品のみで自分という人間を評価されて、納得できるのか?

●しかし、実際には難しい点もあります。例えば、統一テーマで写真展を行う場合です。

●数十点の作品で流れを作る際に、流れの中で作品に強弱を付ける必要も出てきます。また同一テーマで数十点の作品を揃えるには非常に高度な技量が必要で、どうしても弱い作品も出てきます。

●しかしながら、それでもやはり、このような心掛けを常に持って作品を選んでいかなければならないのではないか、と思っています。

---(以上、「プロェッショナル・サンデー・フォトグラファーへ!」第34号から引用)---

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