司法制度は誰のためにあるのか?
たまたま、この間行政訴訟の証人尋問を受けることがあった。ここで一方の弁護士からいろいろと質問を受けたのだが、その際に裁判の進め方というか、弁護士の当事者や証人に対する対応にちょっと疑問を感じたので、一言触れたい。
要は、裁判長からも「簡潔に答えるように」という指示を受け、弁護士も、その質問に対する答に説明を加えようとすると「もういいです」ということで打ち切るので、証人として質問に対してきちんと答えようとしてもその場を与えられないのだ。加えて、そもそも弁護士の質問の仕方も、言葉使いがぞんざいで、どう見ても自分より若いのにも関わらずとても失礼な物言いでもある。
確かに、裁判官も弁護士も忙しいだろうし、効率的に手続きを進める必要があるだろうから、出来るだけ短い時間で終わらせたいのは分かる。また、どのような質問を、どのように行い、自分の側に有利な証言を引き出すかが大事であり、それこそが弁護士の力量の現れるところなので、余計な説明は不要、というのも訴訟戦術的な意味からは分からないでもない。
だが、上記のような対応を見ていると、まさに証人も単なる証拠の一つであり、そして訴訟の材料であって、少なくとも一部の弁護士にとってそこに人格とかというものはあまり想定されていないように感じてしまう。
何も、長時間の尋問を永遠に続けろというつもりはないが、狡猾に作られた質問に対して、誤解に基づいて答えた後、これに気づいて修正しようとしても打ち切られるというようなことがないようにするためにも、もう少しきちんと答えさせるような仕組みがあって良いし、それがより正確な判断につながるのではないだろうか?
以上はたまたま私が感じたことだが、私の友人で、私よりはるかに優秀だった大学の同窓生で裁判官になり、その後現在の裁判制度に絶望を感じて退官し、いくつかの著作を著している某氏によれば、やはり裁判において当事者たち人間はある意味記号に過ぎないという。
このことを身をもって体験したのが、私のこの間の経験ということなのだろうか?もうひとつ司法制度について感じていることは、やはり金持ちが有利だということだ。日本の裁判は、弁護士費用は当事者が負担することになっていて、裁判に勝っても負けても、弁護士費用はそれぞれが負担するのが原則だ。
だから、お金持ちは立派な法律事務所を使って訴訟を起こし、その事務所の力で勝とうとするし、仮に負けても相手の弁護士代を払う必要はない。だが、訴訟を起こされた方は、仮に貧乏でもこれに応じるために弁護士を雇う必要が出てくるし、例えば訴訟を起こされて不当なのでこれに反対に訴訟を起こそうと思えば、そもそも訴訟を起こすために裁判所に払う印紙税が払えないという事態も起こりうる。
つまり弁護士代や印紙税が払えなければ、訴訟を起こされてもこれに応じることすらできないし、或いは逆に反訴を起こすことも出来ないのだ。だから、結局一部の資金力のある人々或いは会社は、時としてそのような弱者の足下を見て、不当な訴訟を起こすこともあるのではないか?
司法制度、或いは裁判、訴訟というものは、人々の権利を守るためのものだと認識しているが、以上の状況をみると必ずしも現実にはそのように機能しているとは思えない部分もある。やはり平等に権利を主張できる仕組み、そして生身の人間として関係者に接する進め方を求めたいし、必要であればそのような制度改革を進めて欲しいと考える。