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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

やっぱり原発はやめた方が良いのでは?

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原発の反対運動が盛り上がっているようだ。それでもこの程度のものであれば政府は方針を変えないだろうし、一方で国民の動きもこれ以上のレベルに至るかどうかは疑問だ。でも、やはり私は原発はやめるべきだと思う。

何度もここで指摘しているが、そもそも人類にはコントロールできない技術だと思うのだ。知人の技術の専門家は、原発の技術はもう確立しているので、心配ないと言うが、現実に事故は起こっているし、1年以上経っても何が起きたか、そして危険を回避するためにどうすれば良いかも分かっていない。「もう大丈夫だ」とのたまう政治家は、10年、20年以上先に殺人犯となる可能性についての覚悟があるのか

最大の問題は、技術は確立していると言いながら、六ヶ所村で処理したプルトニウムの最終処理は日本で出来ないし、そのコストが電力料金に反映されていないことだ。それで、安全だ、確立している、原発は安い、という議論になってここまで来ているのだから、そもそもの入り口からしておかしい。

確かに、電力の供給に不足が出れば、国民生活にも影響が出るし、生産活動にも影響が出るだろう。でも、それは国民の命を犠牲にしても勝ち取るべきものなのだろうか?国家の最大の役割は、国民の生命身体を守ることであるはずだ。残念ながら、現在の国会や政府はその基本的なことを理解していないとしか言いようがない。資格なしだ。

考えてみれば、被爆国であるわが国が、経済成長を目指すために、原爆を落とした米国のGEやウェスティングハウスの技術を導入して、原発を推進したことにそもそも問題があったのではないか

もちろん戦後の復興に米国が果たした役割、そして今でも日米安保でわが国が自国の防衛上多大な利益を受けていること、更には現代の国際社会において米国が他国を圧倒するくらいその秩序維持に貢献していることを否定するつもりはない。そして敗戦国である日本が指摘できることには限界があることも、戦争が紛争解決の手段として相応に認められていた時代を想起すれば、致し方ない部分もあろう。

だが、そもそも第二次世界大戦はなぜ起きたのか?1980年の終わりごろだったと思うが、米国と豪州の学者が発表したComing War with Japanはものの見事にこれが経済戦争だったことを喝破している。そして同じ趣旨が、出光興産の歴史を振り返りながら第二次世界大戦と戦後の日本の石油政策、更にはセブンシスターズの行状を綴った百田尚樹氏の「海賊と呼ばれた男」にも記載されている。

当時の米国を始めとした欧米列強の搾取を中心の植民地政策と比較したとき、日本が聖人君子だったとは言わないが、相応にそれぞれの地域の自主性を生かしながら統治をしようとしていたことは周知の事実だし、だからこそ戦後東南アジア諸国が戦後続々と独立できたとも言える。欧米が搾取の構造だったのに、わが国はインフラ整備などに注力したという指摘は、多くの太平洋島しょ国からも聞く

更に言えば、米国は無差別に東京などわが国の居住地域に対する絨毯爆撃を行い、更に原発を投下するなど、当時の国際法からしても暴挙と言わざるを得ない行動を平気で行ったのである。それが戦勝国であるという理由だけで許されるというのは、正直釈然としない。

そして、一旦は自らの意思で平和憲法をわが国に受け入れさせた米国が朝鮮動乱でわが国を引きずりこむのだ。繰り返しになるが、結果として米国の戦後の様々な行動がわが国の経済成長や安全保障につながったことを否定するつもりはないが、でも結局米国は自分の利益のために日本を使い続けただけであるというのもまた事実だと考える。

そして、そのことは、たまたま日本だけが対象なのではなく、イスラエル問題にしても、イラン問題にしても、イスラム問題にしても、全く同じであり、その根源には白人優越の思想があるのではと言わざるを得ない。そして、原発も、被曝国であるわが国に、米国の巧妙な工作を持って導入されたのだとすれば、これ以上わが国における被曝を増幅させてはならない。オスプレイも、確かに尖閣の制海権にとっては極めて有効という理屈は理解できるが、それは日米安保に基づく米国の責務の果たし方の問題であって、日本国民の身体生命を犠牲にすることを前提としてはならない

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