アフターコロナにおける知識活用の変化を考える
4日29日の日経朝刊の大機小機というコーナーに久しぶりにナレッジマネジメントネタが載っていた。
『変わりゆく「暗黙知」の価値』というそのコラムでは、暗黙知と形式知の境界に"中間知"という「形式知ではないが、ネット上で創成・伝達が可能な知識」というものを定義してアフターコロナにおける知識社会の変化の予想を述べていた。
なかなかに興味深い記事ではあったので、ナレッジマネジメントの専門家の端くれとして、このコラムに便乗してアフターコロナ後の知識活用について考察を巡らせてみたい。
大機小機のコラムでは暗黙知と形式知の中間のものとして中間知を定義していたが、残念ながらここでいう中間知はデジタル世界であるネット上で取り扱われることかられっきとした形式知であろう。コラムの著者が中間知の特徴として挙げたもうひとつの特徴である「形式知ではないが、ネット上で創成・伝達が可能」という点からいって、ひと昔前に話題になった集合知の一種と捉えるほうが妥当そうだ。
あるいは、ネット上に流れる膨大なデータを中間知と捉えても良いかもしれない。例えば暗黙知を形式知にする為のテクノロジーとしてはセンサー技術があり既に各種のセンサーが小型化・実用化されて、従来は形式知してこなかった細かい動きや環境変化などをこと細かく収集することが可能になっている。人々の身近には多数のセンサーを搭載したスマートフォンが常にあり、音声や行動に表情や位置といった複数の属性を加えて記録することもできる。
こうしたセンサーによるデータ化の過程では従来の形式知化と若干異なり、暗黙知を持つ保有者側の意識を問わずに半ば強制的な形式知化が行われる。ジョハリの窓風に例えるなら、人が自分では知っていることに気づいていない知識をも形式知化できる環境になっており、実際にネット上にはこうした無数の中間知的データが存在する。
最も機械が自動的に集めたデータはそれだけでは集合知にはならない。集まった知識について方向性を与え整理や分析をする活動は不可欠である。バラバラで方向性の無いデータや知識はノイズでしかないし、方向性を持たない発散した志向では単なる衆愚に留まってしまう。そして残念ながら現時点ではこうした意図を持つ存在は、AIでは代替できず人間が担うしかない。
Thomas W.Malone氏の定義では、「集合知は、1つの目的に向かって知的作業を行う個人の集合」となっているが、個人的には「特定の目的の為にネットに散らばる多様な知識を、整理・分析して何かを生み出す活動」も十分に集合知だと考える。まとめサイトなどのキュレーション活動はこれらに含まれる。
くしくも新型コロナ騒ぎでのステイホームが推奨され多くのビジネスマンが全国テレワークお試しキャンペーン中であり、半ば強制的にネットワーク越しで知識共有や活用の有効なやり方を日々試行錯誤させられている。こうした試行錯誤のなかから、従来にない新しい知識の取り扱い方法がいくつも開発されつつある。
コラムでは「中間知の存在を意識した組織・人々はもう元には戻らない。」とある。新しい社会への変化は、従来の形式知をネットを通じて上手く取り扱う能力だけでなく、膨大なネットのデータを上手に収集し方向性を持たせて集合知へと活用する能力が高い人達によって先導されていくのではないだろうか。
最後に蛇足ながら、アフターコロナにおける知識社会に向けて、ちょっと気になっている技術の事を書いておく。それは音声認識や文字認識、画像認識といった暗黙知を形式知化する変換工程を効率化する技術達である。暗黙知を形式知化する工程は、これまでもどのナレッジマネジメントモデルでも最も重要かつ難易度が高い工程とされてきた。文中にセンサーによる知識の保有者の無意識下での形式知化の動きを述べたが、知識の保有者が意識して形式知化を行う際の負担も、もっともっと減らせるはずだ。
アフターコロナでは、音声認識や文字認識の高精度化とコモディティ化が急速に進み、普通に話したり書いたりするだけでリアルタイムに形式知化が出来るようになるのではないか。そしてバラバラの形式知や中間知に方向性を与え整理するための、これまでに無い新しいキュレーション技術やインターフェースが近々登場すると期待している。