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「誰かが教えてくれることを信じるのではなく、自分で考えて行動する」ためには、矛盾だらけの「現実」をありのままに把握することから始めるリアリスト思考が欠かせません。「考える・書く力」の研修を手がける開米瑞浩が、現実の社会問題を相手にリアリスト思考を実践してゆくブログです。

原子力論考(60)大衆扇動をしたい人々にとっては深刻な事故のほうが都合がいい(コミュニティ・シリーズ4)

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 原子力論考のコミュニティ・シリーズその4です。

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 前回書いたように、日本の出版・報道界、教育界には学生運動の闘士あがりの人々が多く流れ込んだ関係で、もともと左翼・反政府傾向があり、なにかにつけて「攻撃しやすいターゲット」を探すのが習い性になっている者が少なからずいます。
 安保闘争ではそれで大人数を動員できてしまった、という成功体験(目標は達成できなかったが、闘争を指揮する者としての快感は得られた)を捨てられないわけです。

 以前も書きましたが、学生運動の闘士というのは基本的に下の図でいう「善意の活動家」のポジションです。



 「善意の活動家」は体制側の悪行を告発し、一般市民が抗議の声を上げることを先導する役割を担い、それを通じて自分を「正義の伝道師」と規定することができます。これ、あまり知られていませんが、実は非常に「キモチがいい」ことなんですよ。

 どういうキモチよさかというと、端的に書けば

俺の一声でみんなが動くんだぜ・・・・
ひょっとして俺って大物じゃん?

 というものです。ある種の権力の魔力ですね。もちろん、公権力とは違いますので、そういうものは権力とは呼ばない、という見方もあることでしょう。しかし、少なくとも「善意の活動家」のポジションは、「自分には人を動かす力がある、という錯覚をすることが可能な立場」ではありました。

 こういう快感にハマるのは、現実には力を持っていない、「自分が誰かの役に立っていることを実感できてない人間」です。現実に目の前に存在する人に対して何らかのサービスを提供し、感謝され、ありがとう、と言ってもらえる機会がないとこういう誘惑にはまりやすい。「地方出身で都会に単身で住んでいた学生が運動の主力になった」のにはそんな事情があります。60~70年代の大学進学率は10%程度で、数字だけ見るとエリートのようにも見えますが、一方で学生というのは社会におけるポジションを確立していない、不安定な身分でもありました。

 そして、学生運動を通じて「言葉ひとつで大衆扇動をする」ことで「俺って大物じゃん?」という快感を得られることを知ってしまった彼らは、出版社、新聞社やTV局に入っても同じ姿勢で「政府叩き」をするようになりました。1993年に起きた「椿事件」は出版・報道界に根強く存在するその体質を象徴しています。

椿事件
1993年、テレビ朝日の椿貞良報道局長が当時の政局に絡んでつぎのような発言をした事件。

「今度の選挙は、やっぱし梶山幹事長が率いる自民党を敗北させないとこれはいけませんな」ということを、ほんとに冗談なしで局内で話し合ったというのがあるんです。

「私どもがすべてのニュースとか選挙放送を通じて、やっぱしその五五年体制というものを今度は絶対突き崩さないとだめなんだというまなじりを決して今度の選挙報道に当たつたことは確かなことなんです。

 建前上でしかないとは言え、一応存在している「報道の中立性」原則を真っ向から否定するような発言ですね。この発言をした椿貞良が学生運動に関わっていたかどうかは定かでありませんが、彼が東京学芸大学を卒業してテレビ朝日に入社したのは1960年。年代的には符合します。

 椿事件に限らず、政治問題を扱う報道機関には「正義の伝道師」気取りの体質が根深くはびこっています。椿事件はそのひとつの象徴に過ぎません。

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 そうした「正義の伝道師」を自認して「俺って大物じゃん?」という錯覚を得たい人々は、60年安保闘争のタイミングで大発生しましたが、60年代を通じて徐々に運動は求心力を失い、下火になるとともに暴力化し、内ゲバが起こるようになり、70年安保を過ぎると一気に衰退しました。

 そしてその70年頃から起こり始めたのが原子力発電所への反対運動です。

 学生運動を通じて「言葉ひとつで大衆扇動をする」快感を知ってしまった人々が、「夢よもう一度」とばかりに運動の材料を探した結果行き着いた先のひとつが反原発運動だったんですね。
 こうした「政府叩きのための口実を使った運動」には典型的なパターンがあります。それが前回書いた



 この構図で、「政府・軍・大企業」に近い者を攻撃しやすいターゲットとして選び、軍事・金・環境・差別のいずれかの観点でスキャンダルを探して叩くわけです。
 「原子力発電」というのはこのすべてになんらかの形で当てはまるか、少なくとも当てはめる口実を見つけることが出来る、攻撃しやすいターゲットなのは明白です。

 しかしそれでも86年までは反原発運動はそれほど大きな動きにはなりませんでした。
 79年にアメリカでスリーマイル原子力発電所事故が起きましたが、このときは発電所外への影響はほとんどなかったためです。

 ところが86年に起きたチェルノブイリ原発事故はケタ違いの大事故で、多くの死者を出し、広汎に汚染地域が広がりました。これで反原発運動は絶好の「叩く材料」を得たわけです。
 前回、こういうことを書きましたが、

「反原発」論としてよく主張されるポイント
  1. 原発の真の目的は核開発である (軍事)
  2. 原発は安くない(金)
  3. 電力会社が利益を上げるために強硬に再稼働を目論んでいる(金)
  4. 放射能は微量でも健康を害する(環境)
  5. 環境放射能汚染は取り返しが付かない(環境)
  6. 原発の周囲では白血病が多い(環境)
  7. 温排水が生態系を変える(環境)
  8. 原発立地自治体出身者が差別されてしまう(差別)

 ↑「軍事・金・環境・差別」の中で、もっとも「大衆扇動」に適した観点はどれでしょうか?

 これは、明らかに、「環境」なんですね。

 今どき、「原発の真の目的は核開発である」なんて叫んでも多くの人の関心は引けません。
 「金」がらみの問題も「差別」の問題も多くの一般市民にとっては直接関係のない、遠い世界の話です。
 ところが、「環境」つまり健康に関わる問題となると、一気に関心を持つ人が増えます。チェルノブイリで大事故が起こり、健康被害が出たことは、反原発運動を通じて「言葉ひとつで大衆扇動をする」快感を得たい人々にとって実に都合のいい事件でした。

 何事もそうですが、「目に見える実例、実績」というのは大変大きな説得力を持つわけです。そのため、彼らにとっては、「原発事故に伴う被害は、大きければ大きいほど都合がいい」のが本音です。そのほうが、「放射能の危険性」を声高に語ることができ、恐怖に駆られた大衆を扇動することができ、自分たちに人を動かす力がある、という錯覚を得ることが出来るからです。

 そのため彼らは「原発事故の影響を過大に見積もり、放射能の恐怖を過剰に煽る」ことに心血を注ぐようになりました。

 現実にはチェルノブイリでさえ一般市民が受けた放射能による健康被害は彼らが主張するよりもはるかに小さかった、というのが国連科学委員会の結論です。
 福島原発事故についても、あれだけの大事故を起こしてもなお、放射線障害は一件も起きないだろう、という予想が有力です。

 それは「言葉ひとつで大衆扇動をする」ことを望む人々にとっては非常に都合が悪いことなんですね。「原子炉のメルトダウンは破滅的な事態であり、何十万という人々に深刻な健康被害が出る」と主張してきたにもかかわらず、3機の原子炉がメルトダウンしても誰も放射線障害を起こさない、というのでは、今までの主張が嘘だったことになってしまいます。


 (続く)

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