留学生への中途半端な気遣いは、逆に毒になる
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留学からちょうど1年が過ぎ、晴れてTOEFLをパスした私は、初めて肩の荷がおりました。
ずっと目標にしていたものを手にいれたことで、大学に進学できるうれしさと解放感をひしひしと感じることができました。
全寮制高校での生活は楽しい思い出でいっぱいですが、とはいえ辛かったとき、プライドが傷ついたとき、弱音を吐いてしまったときもあります。※恥ずかしくて、とてもブログには書けない出来事も多々あったり。
そういったストレスも、合格の二文字でキレイに吹き飛び、「これで、ようやく胸を張って留学生を名乗ることができる」と感慨にふけったものです。
じつはTOEFLにパスするまでは、いくら留学しているとはいえ、英語が不完全(=大学が定める合格ラインに達していない)であることに負い目を感じていて、その負い目を消したい一心で勉強に打ち込んでいたという一面があります。ですので、パスするまでは、「自分は大学生でも高校生でもない中途半端な半人前」という意識にチクチクと胸を痛めていました。
全校の留学生の中で、もっとも英語でハンデのある私でしたが、そうはいってもプライドもあります。ただ、そんな悩みを他の生徒に打ち明けるわけにもいかず、かといって先生にボヤくのも格好が悪い。努力と結果がリンクしなかった時期が続いたときも、悔しいやら情けないやらで、夜にベッドの中で歯ぎしりするくらいしかできませんでした。
留学経験者だけでなく、浪人経験のある方も、このへんの「まだ何者でもない自分」の歯がゆさはきっと理解いただけるのではないでしょうか。
そんな状況で、もっとも救いになったのが、留学先の高校の先生方の「私に対する扱い方」でした。それは、「留学生といえど、お客様扱いを一切しない」こと。英語がヘタであろうが、その国の文化に不慣れであろうが、一切手を抜かず厳しく扱ってくれたのです。
たとえば、私がリスニングに難があっても、授業のスピードはネイティブにあわせて進みました。宿題の課題読書も同じページ数読むことを要求されました。できなかったときは、容赦なく罰が下されもしました。
初めのうちは面食らい、それを不満に思ったのですが、次第にその扱いに感謝するようになりました。というのも、それは私を平等に扱ってくれたという証明だったからです。
「お前は通りすがりの客ではない。お前は同じ釜の飯を食う仲間なのだ。我々は仲間同士でコミュニティをなす家族のようなものだ。そして家族である以上、愛情を持って厳しく接するのが当たり前なのだ」というメッセージを、厳しさの中に感じることができました。
※そう感じることができるまで、少々時間は要しましたが・・・
この平等な扱いがあったからこそ、アイデンティティを失いかけそうになったときもあった1年間、正気を保つことができたような気がします。「キミはまだ言葉が不自由だから、それはやらなくていいよ」などと、ヘタに特別扱いでもされていようものなら、ますます劣等感にさいなまれたことになっていたと思います。コミュニティの一員である感覚を持つことができず、阻害感を味わっていたかも知れません。
(そんな経験のせいで、私は日本で出会う留学生には変に気を遣ったり、中途半端な優しさは表さないようにしてしまいます)
そして迎えた5月、無事高校を卒業し、1年と2ヶ月のアメリカ高校生活に終止符を打ちました。卒業時には卒業生として出席することもできました。今も「自分はあの高校を卒業した」という感覚を持っています。
つづく
代表 中山順司
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