オリンピック・スノーボード雑感
グーフィー、1080(テン・エイティー)、L2L(リップトゥリップ)こんな言葉がテレビで聞くこと出来る時代が来るなんて...
今、冬季オリンピックのスノーボード競技群で、この耳慣れない言葉が飛び交っている。
ちなみに、グーフィーとはボード乗せる足のスタンスのことで、通常右利きの人は左足を前において滑る、その逆の右足が前になるスタンスがグーフィーだ。1080(テン・エイティー)はエアーで2回転半すなわち1080℃回転すること。L2L(リップトゥリップ)はエアに踏み切った時と同じ向きで着地すること。
調べた訳ではないが断言するけれど、彼らスノーボード・プレイヤーは、100%スノーボード以外の「Xスポーツ」のプレイヤーだ。例えば、スケートボード、BMXといった、主にアメリカのストリートで発祥のスポーツのプレイヤーであるということ。スケートボードのことをSK8と書いちゃう読者の方がいれば、僕がこう断言する気持ちを分かってくれると思う。
僕ら、じゃなくて彼らはきっと、オフシーズンでは公園でSK8していたんだと思う。そうすると、公園にはポリスメンがやって来て解散を促され、不良、ギャング、無法者、放蕩者のように、白眼視され続けてきたのだと想像する。
それが、冬季オリンピックという場で、エアー(空中でのトリック技のこと)やポールスライド「手すりのようなポールの上をボードで滑る技」のカッコ良さ、美しさがこの日本でようやく認められた。
このスポーツは、学生時代から部活もな、く「本当に好き」でPLAYし続けたひとばかりだ。公園で同じスケーターを見つければ友達になり、技を教えあったりしながら地道に競い合ってきた。上手くなって、プロになりスポンサーがついても、それだけでは食べていけず、アルバイトをしながらスポーツを継続していく。ただそのスポーツが好きで、日本も海外も関係なく自分の力を試したくて大会に挑戦していくのだ。
ハーフパイプの2選手のメダリストらしからぬ、淡々とした姿はその象徴のような振る舞いだと思う。彼らは「日本代表」という意識よりも、日本人も外国人も関係なく、同じスケーターとして技を競い合って勝った、と感じているのではないか。メディアが競って「日本のメダル」と騒ぐ中、彼らにとっては日本のために競技に出たのではなく、自分の技を競い、勝ち取った「自分のメダル」という意識の方が強いのだろう。
オリンピックに限らず、サッカーWC、野球WBCもそうだけれどメダルや優勝旗を勝ち取るのるのは日本人だからではではない。選手個人やチームが切磋琢磨し、努力した結果勝ち取ることが出来るものだ。だから僕は、このようなスポーツの機会にナショナリズムを煽るような風潮を好まない。
話は変わるけれど、ボーダーにはアーチスティックな才能を持っている人も多い。オリンピック出場選手でもミュージシャンを兼ねて活動している選手もいるし、トミー・ゲレロは日本のロックフェスに呼ばれ、マーク・ゴンザレスは優れたポップアートを描いている。
今回の冬季オリンピックを通じて、ストリートのプレイヤーへの理解が得られれば良いと思う。そして、「日本」なんてものを背負わされずに、いつまでも純粋に技を磨い欲しいし、今まで通り自由にLIFEを謳歌して欲しい、と僕は願う。
※以下、2/15追記
このブログ自体、ラフに15分くらいで書いたものだったのだけれど「PickUpエントリー」頂いて申し訳なく少しだけ追記。
前回、バンクーバー五輪で服装の乱れなどを指摘され、バッシングされたスノーボード選手がいた。国母和宏選手だ。
彼だけでなく、多くのスケーターはプロ契約を結ぶときでも、おそらく腰パン姿で契約に臨むだろう。「オトナ達」に競技を教えてもらったわけでもなく、自分たちで技を考案し、試してみながら技術を磨いていた。それを、「オリンピック選手」ということでオトナ達が介入し、窮屈な制服をあてがわれ、格式高い振る舞いを要求される。
彼らは「いつも通り」にしていただけである。オリンピックということで、オトナ達が「格式」を押し付けてきたのだ。
スポーツ競技は選手たちのもので、「国のもの」ではない。ツマラナイ国威などをそこに結びつけるから「メダルの個数」に固執したり、先のようなことが起こるのではないか。
オリンピックは国威掲揚のアイテムではないし、マナー教室の場でもない。選手は自由に、「いつも通り」に磨いていてきた競技に臨んで欲しいと思う。
正林俊介