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パブリックとはシェアする倫理である ── ジェフ・ジャービス著『パブリック』を読んで

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フェイスブックがプライバシーのデフォルト設定を勝手に変えたことが何度か問題になったが、これが私たちに「プライバシーとは?」を考えるきっかけをつくってくれた。

また逆に「パブリックであることとは?」についても考えるようになってきているのではないか。もちろん個人にとってパブリックの意味についてだ。フェイスブックが巻き起こした問題とつきあいながら、私たちは結局、CEOマークザッカーバーグの思い描いく世界──プライベートとパブリックが再定義された世界──に引きずり込まれていくのだろうか? フェイスブックを利用している人なら一度は考えたことのありそうな、身近な問題意識だ。

今回は最近ジェフ・ジャービス氏が著した『パブリック』が、個人にとってパブリックの意味を掘り下げて考えさせてくれるので紹介したい。

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パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス(著), 小林弘人(監修・解説), 関美和(翻訳)

ちなみに本書のカバーを外すと、真っ青な表紙が出てきて度肝を抜かれた。表紙の裏も表も、天地も全面真っ青に塗られた本は初めてと思いながら、『フリー』(クリスアンダーソン著)も青色が強烈だったことを思い出す。

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さて一般にプライベートとパブリックは対立概念に捉えられがちだが、本来は補完的な概念として捉えるが自然だ。その点本書は、個人のパブリックな側面のほうをコア概念とし、プライベートな側面を周辺的に位置づけて補完関係を見いだそうとしている。このパブリックのほうをコアに捉えている点が、通念をひっくり返しているようで面白い。

※なお以下掲載する図は私自身の理解のために描いてみたものであって、ジャービス氏の考えをそのまま表しているわけではないので注意ください。

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パブリックの利益とは?

プライバシーを尊重することが習慣になっていた私たち個人の頭には、パブリックをコア概念にせよと言われてもピンとこないかもしれないが、パブリックにはざっと次のような利益がある。

  • つながりが築かれること
  • 他人が他人でなくなること
  • コラボレーションが生まれること
  • 集合知の恩恵を受けられること
  • 完全神話が払しょくされること
  • 偏見が解かれること
  • 認知されること(名声が得られること) …etc.

逆にプライバシーの利益はどうだろか。プライバシーとは「物理的または心理的手段によって、自主的かつ一時的に一般社会から退避すること」である。 しかしプライバシーは一般に尊重されている割に、はっきりとメリットを説明することができない。

そもそもプライバシーという言葉はラテン語の「奪われた」という言葉から来ているらしいから、利益が失われる状態を指しているようにも思われる。なるほど語源的にも、プライバシーの利益は説明しにくいという事情が見えてくる。

やはり個人の人格は人間関係の中で形成されるものだし──ジャービス氏もそういう見方に立っており──パブリックの利益がやはり固定された定義を持つ一方で、プライベートには固定された定義が与えられないという見方ができそうだ。

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これまでのパブリックとこれからのパブリックとは?

ジャービス氏によれば、現在はパブリックの概念が確立される過渡的な状況にある。パブリックの意味合いはどう変わっていくのだろうか?

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これまでのパブリックは近代化にともなって生まれた。近代化というのは分業が発達し、生産者と消費者を分けて考えるようになった過程でもある。近代化の過程で、人々がバラバラになり、全体が「マス」として扱われるようになると、マスを結束する力として「公共圏=ただ一つのパブリック」が必要になった、と言われる。公共圏とは具体的には企業や政府などの組織を指している。こうしてパブリックの主役が組織に移ってしまった時代が、近代から現代まで、一時的に続いた。

そしてここにきて新しいパブリックの考え方が生まれつつある。新しいパブリックは「個人が作る公共の領域」として再定義される。組織の権威は個人のパブリックの領域には及ばず、個人は自立した存在になる。

これは元来(近代化以前)のパブリックに回帰する過程のように思われる。ただし個人にとってのパブリックの比重が昔に近くなるという話であって、社会がまるで昔のように戻るということではない。ネットやソーシャルメディアの普及はかつてない流動性を社会に与えようとしているからだ。

さてこうしたパラダイムシフトが起きるときは、きまって私みたいな旧世代が犠牲に合う。変化に体がついていかないのだ。パブリックとプライベートの比重が大きく転換するこのパラダイムシフトも、期待を半分ぐらい抱きつつも、当事者としてみると迷惑なものかもしれないと、実は不安もあったりする。

逆にデジタルネイティブと言われるティーンエイジャーにとって、フェイスブックでのウォールでの会話は、「デフォルトでパブリックとして振るまい、努力してプライベートになる」(ダナ・ボイド氏、本書から)と言われる。確かに彼らにとって、フェイスブックのプライバシーのデフォルト設定は既に常識になっている。

ちなみにSF作家ダグラス・アダム氏によれば、「30代以降に発明されたものは全て、自然の摂理に反する、文明の終わりの始まりである。本当に問題ないことが次第に分かってくるまでにだいたい10年くらいかかるからだ」(本書からの引用)
──らしい。ここまで言われると自分だけは例外と思えなくなる(苦笑)。

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これまで望遠鏡の反対側からプライバシーを見ていなかったか?

どこから旧世代というかは別として、旧世代にとってパブリックを中心に置いてものを考えるというのは簡単なものではない。ジャービス氏も「僕らはもしかして望遠鏡の反対側からプライバシー(やパブリック)を見ているのかもしれない」と。まさしくその通りで、眼を当てるべきはこれまで正しいと思っていたほうとは反対側のレンズだったのだ。

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それまで私自身も、パブリックとプライベートの再定義は、境界や範囲を捉え直す問題と勘違いしていたようで、それは本質ではなかった。ここがまさに目からウロコなのだが、ジャービス氏はこれを倫理の面から本質を捉えようとした。法律によってではなく。倫理とはみんなの役に立つという意味である。

  • プライバシーとは「知る」倫理である。
  • パブリックとは「シェアする」倫理である。
    と。

例えば個人の購買履歴は、既にカード会社のみならず必ず誰か他者に知られたものになっている。これを犯罪に使うかみんなの役に立つように使うかは、知る側の倫理に委ねられているとしかいいようがない。だからプライバシーは知る側の倫理なのだ。

逆に自分がガンになっていることをパブリックにするかどうかは自分の情報を管理する倫理となる。もちろんシェアする必要はないが、自分のデータが病気の究明に役立つなら話は別だ。シェアすることで他人の命が助かり、シェアしないことで死ぬ人が増えるかもしれない。シェアすることは、倫理として責任があるといえる。

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顧客と直接開かれた関係を持つ「スーパー・パブリックカンパニー」をめざして

パブリックやプライベートの新しい倫理観が個人に浸透していけば、次は産業や企業のパラダイムがどう変化していくかが注目される。ジャービス氏はとてもユニークな発想を持った人で、本書では「スーパー・パブリックカンパニー」として新しい企業像を丸々一章、語っている。スーパー・パブリックカンパニーとは、顧客と直接開かれた関係を持った企業のことを言う。

これは新しいパラダイムに仕方なく押し流されて変化する企業ではない。額面通りだが、「過激なまでにパブリックな企業」を言っている。

ちなみにマーク・ザッカーバーグ氏も「今後5年のうちに、ほとんどの産業と多くの企業は、ソーシャルエンタープライズとなるべく見直され、再構築されるだろう」(本書から引用)と言っているように、脅威の外部要因は思い切って立ち位置を変えないと機会として取り込んでいくことはできないものだと思う。

さてスーパー・パブリックカンパニーになると、これまで秘密のベールに覆われていた商品やサービスの開発はオープンになり、社外とのコラボレーションが普通になるという。そんなコア・プロセスがオープンになっていけば、ガバナンス(企業統治)の姿も変わるだろう。ジャービス氏が提案する「コラボレータによる下院」と「社員による上院」といった二院制は、分かりやすい姿の一例だ。

本書には、「ローカルモーターズ」という超小規模工場を経営する自動車メーカー群など、いくつかスーパー・パブリックカンパニーの事例が上げられている。印象としては生産性も楽しさも追求するコラボレーション型の企業で、それぞれにアプローチが面白い。大事なのは、スーパー・パブリックカンパニーが既存の大企業(例えばローカーモーターズならGMやフォード)としっかり差別化して戦っていけるかどうかということ。ここをしっかり見ていきたい。

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ではまた勉強会の場にて、本書の、ジャービス氏の発想をお借りして、自分なりにパブリック浸透後の産業や企業の姿についてアイデアを発展させてみたいと思う。企画をお楽しみに!

※勉強会の企画(予定)はプランテックルーム【勉強会】(フェイスブックページ)をご覧下さい。

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