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禅の発想法を採り入れてはどうか? ジョブズ氏のように

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アップルの創業者、故スティーブ・ジョブズ氏が若い頃から禅に傾倒していたことはよく知られている話だ。その禅のことを私自身はよく知らなかったが、ジョブズ氏が亡くなったことをきっかけに、今さらながら知っておきたいと思うようになった。

iPhoneやMacBoook Airなどのシンプルな外形や操作性を見て、これはほんらい日本が作るべきものだったと悔しがる人たちの意見には、要素技術として日本の技術が多く基礎になっているという事実以外に、製品作りに禅の思想が表れていると指摘する意見も多いように思われる。

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禅と日本文化 (岩波新書)
鈴木大拙(著)、北川桃雄(翻訳)

禅の思想を海外に広めるために書かれたこの本は、なんと1940年が最初の翻訳刊行となっている。鈴木大拙氏は、仏教を世界に広めようと、数多くの著作を英文で著した有名な仏教学者。──時期的にジョブズ氏と接点はあり得ないと思うが、ジョブズ氏が触れた、海外における禅の雰囲気は、鈴木大拙氏の英文著作が源流になっていると思う。

日本人でも意外に気付いていないと思うが、禅は他の仏教宗派に比べて、広く日本の生活文化に影響を与えている。──ちなみに、天台宗は抽象概念が複雑すぎ、真言宗は儀式に金がかかりすぎ、あるいは真宗は仏像破棄によって仏像が美術の対象から遠ざかってしまうなど、これら他の宗派は、影響が宗教分野に限られていた、とのことである。

本書には、日本文化への禅の影響が、「美術」「武士」「剣道」「儒教」「茶道」「俳句」それぞれとの関係で紹介されている。武士の文化は既に過去のものとなってしまったが、日本文化に与えた範囲はこのように広く渡っており、簡素さや直観を重んじる日本人の思考様式に大きな影響を与えてきた。

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例えば禅と美術。禅とゆかりの深い水墨画は、修行僧が山林の自然に触れて描かれたものだ。修行僧は鳥や動物や自然が気付かないままに自然物を観察しようとする。

「彼らの観察の特殊なところは、それが彼らの直観を深く反映することである。それは単なる博物学者の観察ではなくて、禅僧たちはその観察する対象の生命そのものまで入り込まねばやまぬ。だから、いかなるものを描いても、必ず彼らの直観を表現することになって、「山や雲の精神」がその作品の中に息づいているのを感じることができるのである。」

あるいは禅と武士。武田信玄や上杉謙信が戦の最中にも、禅寺の住職たちの花見の席を断らなかったという話がある。戦闘の中においても自然を享楽することは「風流」だとされ、風流を解することが教養の一つと見なされていた。死に際においても詩歌を書く習慣があったのも同じ心理があったと言われている。

「(辞世の詩歌を書く習慣について)日本人は自分たちが最も激しい興奮の状態におかれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけうるように教えられ、また鍛錬されてきた。死は一切の注意力を集中させる最も厳粛な出来事であるが、教養ある日本人はそれを超越して、客観的に視なければならぬと考えている。」

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さて、こうした直観──鈴木大拙によれば、生命を外からではなく内から把握する見方──的な作法を、残念なことに私たちはすっかり忘れてしまったかのように思える。

商品開発の現場においても、ジョブズ氏が大切にした直観はあまり大切にされておらず、むしろ客観的な発想法が主流になっている。

しかし、客観的な発想法がうまくいっているとは思えない。例えばこれは私の実感だが、「市場を客観的に見る」という市場分析の作法も、実践として上手く行われているように感じられないということがある。

実際、市場を客観的に見るというのは、自分が客にとって良かれと思うこと(主観)と客が欲しいと思うこと(客観)を区別できるようにと、ビジネススクールで教え込まれる作法だが、実践はなかなか難しい。

これは客観化の発想法について適切な教え方ができていないということではなく、率直にいって日本人の能力に合わない部分もあると私自身は感じている──日本人が正直に出来ているからだろうか?

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しかし救いがある。禅の思想から言えば、実は、これまでの客観化の方法じたい、間違ったやり方なのだ。
禅の思想に立てば、「誰にでも分かるように言葉を尽くして説明すること」はしなくて良い。というか、むしろ余計だとみなされる。言葉は本当の理解の邪魔になるから説明するな、ということだ。

ただし、禅は客観を全否定しているわけでもない。

禅の場合、「無心になる」鍛錬が行われる。これは、

「自己中心的な意識的な努力を捨て去って、無意識の働きに任せることで成熟せられる」

いうなれば、心の中に、言葉を使わない客観を育てるということだろうか。もちろんビジネススクールの基準からすれば、禅のいう無言の客観は言葉で説明したものが何もないので、客観の範疇には入れられないだろう。

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ジョブズの死をきっかけに、自身がユーザーの心になりきって商品開発することの大切さや難しさがクローズアップされたように思う。
しかし凄いと思っていてもこれに近づけないのは、ややもすると独り善がりで市場に受け入れられないアイデアを暴走させてしまうリスクが大きいと気付いているからだ。

だからといって今までのやり方を続けて良いわけではない。
ジョブズの真似をすることはできないが、ジョブズ流をめざすなら、技法や手続きをいくら追求しても限界があるだろう。むしろ企画者の心のあり方を鍛錬することのほうがよほど重要だということになるのではないか。

修行のような鍛錬が必要になると思うが、禅の発想法や観察法を、企画の現場や人材教育に採り入れてみてはどうか。実は日本人には禅が合っているような気がするのだ。

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