「結果は出しますから」の決め台詞 〜次期リーダー育成にあたりすべきではないこと〜
リーダー、もしくはリーダーになろうとする人は、自分で実現したい取り組みがあることと思う。その取り組みは、課せられたミッションや責任というよりは、内発的動機から組織、会社、広くは社会にとってよりよきものであり、あってしかるべきもの/ことと熱い思いをもってのことと思う。QCやプロジェクトなど社内的に概ね公式的に認められるものから、部課内にて内々に賛同を得て進めるものもあるだろう。
取り組みにあたって、上長を口説くとき、得てして最後の捨て台詞として、「結果は出しますから!」で押し切ってしまうことはないだろうか? 私自信も若い頃、そのようなことはあったと振り返る。自分自身で、「良いものは、良いはず!」とやや感情のままに理解を求めてしまう。
多くの人は、取り組みに対する説明を怠っているわけではないと考えているのだと思うが、相手である上長にその主旨を説明しきれない状態にあろう。計画の予算、リスク、貢献度合い、波及効果、将来性など口説きにあたり、いわば説得力に欠けるのである。往々にして、援護射撃する諸先輩の助けを得ながら、計画の妥当性を伝える努力をすべきである。
「結果を出す」ということは、計画の説明の過不足によらず、進める(進めた)取り組みに対しては、到達すべきゴールであり、要求されることである。いわば、結果にこだわるのは至極当然なことである。
つまり、「結果は出しますから!」の一言で片付けることは、なんら責任をとっていることではないと私は考える。誰もが負うべきことを高らかに宣言することは、自身への戒めにはなるであろうが、上長に対して格段の約束をしたことにはならない。
”最後の数字だけだせばいいんでしょ!”的は発想の怖さは、むしろ、その後にあると考える。ビジネスのパフォーマンスは様々な要因を受ける。外部要因など追い風を受けての成長もあるだろう。
「結果さえだせばいい」が先行した組織運営の発想は、組織が大きくなり次なるリーダーを育成しようとしたときに、果たして彼らの成長を助長する理念/思想の柱になるであろうか?
取り組みに対する過程を計画することは、メンバーと進むべき道を共有し、的確な時期に効率的に取り組みを進めることで、互いの力を相乗的、かつ効果的にパフォーマンスに結びつけることができるであろう。抽象的な部分は抜きにしても、メンバーにとって進むべき過程が見えることは、安心感を産み、リーダーシップの源泉となると考える。結果の議論に終始する環境で、次なるリーダーたちが、上長/部下やメンバーらと共創しようと考えるようになるか、期待収益として還元しあう投資的関係になるのか、私自信はなんとなくイメージがつく。
「結果さえ出してくれればいいから」が一人歩きする組織が、永続的に組織として成長するかについては、私として違和感がある。リーダーであるべき人は、パフォーマンスが求められることは自明であり、むしろ、その過程について、次なるリーダーに期待すべきだと私は考える。