建国記念の日に思う日本人としてのバレンタイン戦略
他を知り、己を知るも、そもそも、私たちは何ものなのか?よくわからない。今日、この日に、まず、日本人とは何ものなのか?を内田樹教授の『日本辺境論』より学びたい。養老先生も絶賛で、なかなか奥深いがフムフムと思うことが多い。
米国・オバマ大統領の就任演説に触れる。演説の中盤、建国以前の若きアメリカの基礎を築いた名も亡き先駆者をたて、泣かせるので長めの引用。
For us, they packed up their few worldly possessions and travelled across oceans in search of a new life. For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and ploughed the hard earth. For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.
”私たちのために、(先駆者を指して)彼らは幾ばくかの荷物を持ち、新たな生活を求め海を渡り、私たちのために西部を開拓し鞭に耐えた。そして、私たちのために、多くの戦場で戦いそして命を落とした。”(要約)
そして、アメリカの再創成への決意の参画を次のように伝えている。
This is the journey we continue today. 〜 中略 〜 Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.
要約すると・・・、”これこそ、私たちが続けてきた旅であり、今日から、再開し、埃を払い、そしてアメリカの再創成に再び取り組もうではなかろうか!”としている。熱い。熱すぎる。
米国には、米国のあるべき姿がはっきりしている。内田教授曰く「アメリカ人がアメリカ人であるのはかつてアメリカ人がそうであったようにふるまう限りにおいてである」と表現している。
それに引き替え、日本人に日本のあるべき姿はあるのだろうか?内田教授は、日本人論の古典的コンテクストとして故川島先生の『日本人の法意識』の「相互のあいだに区別があきらかでなく、ぼんやり漠然と一体をなしてとけあっている」を挙げて、日本人は、自分自身のアイデンティティの一貫性よりも場の親密性を優先させる傾向があるとしている。
そして、日本人を、「専らその距離の意識にもとづいて思考と行動が決定されている」として「変境人」と呼ぼうとしている、
実に堅〜く表現されているが、実にフムフムと思う。要するに、多分に私もそうであるということだ。
ただし、悪いことばかりではないらしい。常に、キョロキョロと周りを見ている私たち日本人には、距離感の意識故の「学び」の技術が備わっているようだ。
柔道、剣道、合気道、書道、野球道(?)など、道にゴールはないと言われる。ここに面白い説明があった。道を究める師弟関係において、無意味と思える修行がある点についてである。
実は無意味と思われる修行は、意味があってはならないというメカニズムが働いているというのである。例えば、毎日のトイレ掃除が修行として課せられている場合、道を究めるためにどれだけ有用かであるかを弟子が判断できてしまうと弟子に判断の枠組みが形成され、後に師匠が指示する修行に対して、「いいえ、結構です。修行に意味がないですから」と拒絶されることにより修行にならないというのである。
その上で、この「無意味」(と思えるよう)な修行を続ける自分を合理化しようとするものの、崇高な師匠が伝えたいであろうと勝手に弟子が考えるその修行の意味の不合理さをもって、「私はまだまだ未熟だ!」と精進するとのことだ。
我々、日本人には、このように意味もないように思えるが本人は意味があると思い込んでいることをやり遂げる能力が備わっているというのである。内田教授いわく「自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力」としている。言い回しが、堅いが、要するに「なんだかよくわからないけど、とにかく頑張れる」のである。
脳学者の池谷裕二准教授は、次のように指摘しているとのことだ。
好きな人がいたら、プレゼントをあげるのではなく、プレゼントをさせる
のである。
なんだかよくわからないが、流れがあって、プレゼントをあげることとなったとしよう。そのとき、「彼女/彼氏でもないけど、チョコあげちゃった俺/私って、一体、何してんだろう?」と思うが、「よくわかんないけど、頑張る」気持ちで、その距離感を意識してぼんやり溶け合ってしまう。
これが、日本人として自分自身を知り得た上でとるべき、モノゴトの運び方かもしれない。