ロボティクス大国への道筋:中国が狙う「エボディードAI」の覇権
IDCが2026年5月21日に北京で開催した「IDC Directions 2026」において、人工知能(AI)市場に関する重要な分析が示されました。
China Is Leading the AI Supercycle -- and the Distance Is Growing
AI産業は従来の基盤モデル開発やインフラ構築を中心とする第1フェーズを終え、実社会や企業実務への大規模な実装を進める第2フェーズ、すなわち「AIスーパーサイクル」へと移行しています。この潮流の中で、社会的・政策的な後押しを受ける中国市場の進展が、世界的な注目を集めている状況です。
実務への組み込みが加速する一方で、計算資源のコスト管理や、産業現場における既存システムとの摩擦など、解決すべき構造的課題も浮かび上がっています。本質的な価値創出へ向け、企業は評価基準の刷新を迫られているといえるでしょう。
今回は、中国におけるAIの実装状況、Token(トークン)や電力効率を巡る経済基盤の変化、そして、今後の展望について取り上げたいと思います。

AIスーパーサイクルの構造転換と投資規模の拡大
世界の企業向けAI関連支出は、2026年に9,400億ドルに達し、2029年には2兆1,000億ドル規模へ拡大すると予想されています。IDCの分析によると、この急激な市場成長を牽引しているのは、単なるブームではなく「AIスーパーサイクル」と呼ばれる構造的な大波です。初期の市場を主導した計算能力の確保や基盤モデルの構築といった投資は一段落し、現在はエージェント型AI(自律的にタスクを実行するAI)や、企業実務へ最適化されたインテリジェントサービスの展開へと重心が移っています。
この第2フェーズにおいて、中国市場の動向が世界的な影響を強めている現状です。米国を中心とした基盤モデルの性能競争とは異なるアプローチとして、中国では膨大な実社会のデータと強力な需要を背景に、実務応用への移行が極めて迅速に進められてきました。インフラの整備からアプリケーションの爆発的普及への転換は、国境を越えた技術覇権の構図を左右する新たな要因になりつつあります。
しかし、この急速な市場拡大の裏には、投資対効果(ROI)の不確実性という課題が依然として残されています。インフラ投資の果実をどのようにして実際の事業収益へと変換していくか、多くの市場参加者がその境界線上で模索を続けている状況です。
MaaS市場の爆発的成長とトークン経済の現実
中国のMaaS(Model-as-a-Service:サービスとしてのモデル)市場は、2024年から2030年にかけて年平均成長率(CAGR)1,154.9%という急激な軌道を描き、2026年には年間トークン呼び出し回数が4京(40,000兆)回に達すると試算されています。市場規模は186億元(人民元)規模に上る見込みであり、すでに中国の主要企業の60%以上が生成AIを核心的な業務プロセスに統合している状況です。ここでの重要な変化は、AIの役割がテキストや画像を「生成」する段階から、業務を「執行」する段階へ進んだことにあります。
企業が実務でAIを運用する際、コストと価値を評価する基準単位は「トークン」へと一本化されつつあります。システムを動かすための実質的な通貨としてトークンが機能する一方、大量の呼び出し処理に伴う運用費用の膨張は、企業の財務を圧迫する要因としても浮上してきました。利益率の低い業務にまで無差別にAIを適用すれば、コストがリターンを上回るリスクが常に付きまといます。
技術を提供するプラットフォーム側と、コストを抑制しながら成果を得たい導入企業との間には、価格設定やサービス品質保証(SLA)を巡る静かな摩擦が生じています。この摩擦を解決する代替案として、特定のドメインに特化した小規模・軽量なカスタムモデルの活用や、オープンソースモデルを内製化する動きが広がっており、市場の競争環境を多極化させている構造です。
評価指標の刷新――「FLOPS」から「Tokens per watt」へ
AIの処理効率を測る指標が、従来の理論上の計算性能を示す「FLOPS(フロップス)」から、消費電力1ワットあたりに生成できるトークン数を示す「Tokens per watt」へと移行しています。IDCの予測によると、2027年までにAI計算需要の70%以上が、モデルの学習ではなく「推論(実際の応答処理)」によって占められる見込みです。これにより、エネルギー制約が厳しいエッジ(現場端末)側のインフラ成長率が、中央のデータセンターを上回る傾向が強まっています。
この評価軸の変化は、計算資源の絶対量だけでなく、いかに低いエネルギーコストで持続可能な業務処理を実現できるかが競争力の核心となったことを示しています。2029年までに世界のアクセラレーテッド(高速化)コンピューティングサーバー市場は1兆ドルを超えると想定されますが、その電力需要を賄うためのエネルギー確保は、世界共通のボトルネックです。電力供給網の制約という現実的な壁が、理論上の技術進化の速度を制限し始めています。
最先端の半導体を確保する競争から、電力を浪費しない効率的なシステムアーキテクチャの構築へと、企業の戦略シフトが求められています。限られた電力枠の中で最大限の推論処理を行うためのハードウェアとソフトウェアの一体型開発が、国際競争における新たな差別化要因となるでしょう。
第15次5カ年計画が描くデジタル主権とプラットフォーム輸出
2026年に指導した中国の「第15次5カ年計画」では、デジタル経済の発展に向けて、新たな機会創出、デジタル主権の確立、そしてグローバルな供給能力の再構築という3つの優先事項が掲げられています。AI、データ、計算資源の融合が進む中で、デジタル技術分野への支出は今後も2桁成長を維持すると予想される状況です。ここでの戦略的な転換点は、従来の「製品の輸出」から、AIを中心とした「機能、プラットフォーム、エコシステムの輸出」への移行にあります。
国家主導でのデータ流通市場の整備や、独自の技術規格による囲い込みは、欧米主導のグローバル標準と衝突するリスクを常に抱えています。外資系企業にとっては、データの国外移転規制や現地調達比率の要求といった制度的障壁が、中国市場での展開を難しくする要因です。その一方で、アジアやグローバルサウス諸国に対して、中国発のAIガバナンスとインフラをパッケージで提供するアプローチが具体化しつつあります。
自国を中心とするデジタル経済圏の拡大は、国際的なサプライチェーンの分断をさらに進める可能性を否定できません。各国の政策関係者やグローバル企業は、地政学的リスクを勘案しながら、技術の相互運用性をどこまで担保すべきかという困難な判断を迫られています。
インダストリアルAIが変革する製造現場の力学
中国の製造業において、インダストリアルAIは部分的な実証実験(PoC)の段階を過ぎ、本格的な量産ラインやサプライチェーン管理、経営意思決定への組み込みが始まっています。従来の製造業向けソフトウェアは、実績の記録とプロセスの制御(Control)に主眼が置かれていましたが、新世代のシステムは、現場の状況を感知(Perception)し、需要を予測(Prediction)した上で、協調的な実行(Execution)までを自動化する能力を備えているのが特徴です。
しかし、現場の実装においては、過去数十年にわたり構築されてきたレガシーシステムや、部門ごとに孤立した「データのサイロ化」が強力な抵抗勢力となっています。工場内の機器が持つ固有のデータ形式を統合し、R&Dからアフターサービスまでを一気通貫でつなぐことは容易ではありません。現場の職人技や独自の運用ルールをAIに代替させるプロセスでは、労働環境の変化を巡る摩擦も発生しています。
この課題に対して、製造工程全体をデジタル上で再現する「デジタルツイン」の高度化や、現場の制御層に直接エージェントAIを配置する代替アプローチが検証されています。エンドツーエンドでの価値鎖(バリューチェーン)の刷新に成功した企業は、生産効率を劇的に向上させており、世界の製造業における競争優位性の定義を書き換えつつある状況です。
スマートデバイスのAIネイティブ化とエコシステム競争
2026年の中国におけるスマートデバイスの出荷台数は、前年比で約0.3%微増の9億台に達すると予測されています。市場全体の数量成長は飽和傾向にあるものの、メモリなどの主要部品の供給逼迫に伴うコスト圧力が強まる中で、価値の構造が劇的に変化している状況です。購入者が対価を支払う対象は、ハードウェアの物理的なスペックではなく、端末上で提供されるAIによるインテリジェントな体験や、連携するエコシステムの能力へと移行しています。
この変化は、単なる端末の製品アップデートサイクルではなく、デバイスを起点とした「価値分配」の再編を意味しています。OSレイヤーやアプリケーション層でAIが自律的にユーザーの要求を処理するようになると、従来のアプリストア主導のビジネスモデルや広告収益の構造は機能しなくなる可能性が考えられます。端末メーカー、半導体ベンダー、AIモデル開発者の間での主導権争いが激化しているのは、このためです。
ハードウェアという物理的な制約を抱えながら、どこまで高度な推論をローカル環境(オンデバイス)で処理できるかという技術的限界との戦いも続いています。クラウドとの最適な協調関係を築き、ユーザーの日常に溶け込むAIネイティブなインターフェースを確立したプラットフォームが、次世代の顧客接点を独占することになるでしょう。
今後の展望
AIスーパーサイクルの進展は、インフラの整備状況から実務への実装効率へと企業の評価軸を移し、産業構造の再編を促すと考えられます。特に中国市場で進む、ロボティクスと具現化された知能(エンボディードAI)の融合は、5年以内に現在の14億ドルから77億ドル規模へと年率94%の急成長を遂げることが想定されており、製造業や物流、サービス業のあり方を根底から揺り動かす要因となるでしょう。
このような技術導入のタイミングにおいて、企業は単に最先端のモデルを導入するだけでなく、消費電力やトークン単価に見合った「最適な配置」を選択する組織能力が必要となります。制度の進化やデジタル主権を巡る国際競争の力学を注視しつつ、自社のコア業務にAIを不可逆的に組み込んでいく戦略の具体化が問われています。
