さよなら「教養書店」----蔦屋・ビレバン・グーグルゾンから見えるもの
山口浩氏の「代官山蔦屋書店が気に入らない理由」を読んだ。
私は、編集者や書き手として出版業界に関わって20年以上になる。そこから感じていることを書いてみたい。
■消えた「教養主義書店」
私は1980年代前半に、栃木県の中規模都市の高校に通っていた。人口は8万人である。放課後はよく「大塚書店」という、100坪あまりの売り場を持つ、街の一番店で立ち読みをした。雑誌、新刊書籍、文庫本、写真集の主立ったものは全部揃っていた。
昔の中規模から上の書店がよかったのは、もちろん限界はあるが「本が網羅して揃えられていた」ということだ。当時の私はドキュメント寄りの写真に熱中したが、毎月の写真雑誌から写真技法書、ドキュメント写真集、そして写真史の本まで、店の中でステップアップしていくことができた。大塚書店にない本が読みたくなると、電車に40分近く乗って、県都宇都宮の書店に出かけた。当時35万人程度の都市だったが、数店回れば、プロ向けの撮影技法書やカメラの修理マニュアルまで、たいていの本を書店で見ることができた。
当時は、雑誌が主にジャンル別・年代別にそれぞれの人の興味をセグメントしていた。小学生は『小学○年生』『科学』『学習』、ませた子どもは『子供の科学』、総合雑誌、婦人雑誌、エトセトラ。
そして、田舎書店においては、これら体系の頂点に「岩波コーナー」があった。返品を受け付けない岩波の本をまとまって扱うのは書店の矜持であり、「知のシンボル」であった。今は見る影もないが、そういうヒエラルキーがあったのである。
■行動する情報へニーズがシフト
これが崩れだしたのは90年代に入ってからだ。社会がそれなりに豊かになり、雑誌の読者セグメントが変わった。80年代から伸びた『ぴあ』がその典型である。「あなたたちはこれを見るべき」という世代別雑誌のセグメントから、「あなたが見たいものを、この中から探してください」になった。ファッション雑誌は細分化し、婦人雑誌の人気は急落した。男性誌は総じて落ち込み、モノと薄いカルチャー主体の『ブルータス』が人気を博した。教養主義は捨てられ、岩波コーナーなど誰もありがたがらなくなった。別の理由であったが、大塚書店は90年頃廃業してしまう。
そんな時代も、2000年代の後半には終わった。すでに、雑誌が人びとの興味をセグメントする時代ではなくなったのだ。人びとは、検索することで、いま興味をもつこと、必要なことにセグメンテーションされている。本が必要だったらamazonを検索する。だから、旧い書店はもう要らないのである。
書店の売上は落ち、労働条件が悪くなって、いま、ほとんどの書店は悲惨なことになっている。大塚書店と同じ100坪の売り場を持つ店はいくらでもあるが、ただ、取次から届いた雑誌や本が並べられているだけだ。「もっと遠く、もっと深く」誘うようなあのクオリティは、もう出ない。
■「グーグル・アマゾン体制」の完成と蔦屋書店
では書店は、そういう私たちを相手に、何を店頭に並べればいいのか。その一つの答えが「文脈」であった。ジャンル別、出版社別にどこの書店も同じように並べられていた書棚を、テーマ別、もっと自由に連想で並べ、書店員のキャラクターも打ち出して新しい面白さを生み出したのが根津の小さな書店「往来堂書店」であり、もっと自由にグッズ類などを本と一緒に並べた「ヴィレッジヴァンガード」だった。リアル書店からネットへの移行期に、自分のセグメンテーションと違うものが呈示される意外性が受けたのである。
もっとも、こういうニッチな店作りでは、大きなマスを獲得することはできない。蔦屋書店はこの流れの中にあるが、選書者の「体臭」を抜いてオシャレさを演出している。その基本は90年代の教養主義解体後の書店の作り方を薄めたもので、ネットのセグメンテーションを前提に店にやってくる人(すでに私もそのひとりと言える)に対して、新しいセグメンテーション、文脈がありますよ、と軽いアプローチをしているものだと私は考えている。だから山口氏のように、自分の中で教養の体系を組み立てる人、すなわち教養型の品揃えを好む人の欲求には応えられないのである。
書店がどのように店を作ろうと自由だ。しかし、いま、公共図書館が蔦屋書店のように変わろうという動きがある。一週間後ぐらいを目処に、そのことについて書きたい。
なぜすぐ書かないかというと、旅に出るからだ。