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記者としての取材や編集者としての仕事の中から浮かんだふとした疑問やトピックをご紹介。裁判や企業法務、雑誌・書籍を中心としたこれからのメディアを主なテーマに、一歩引いた視点から考えてみたいのですが、まあ、精密でない頭の中をそのままお見せします。

「危ない」ジャーナリストの、「危ない」セルフブランディングについて考える

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ネットの台頭によって、ジャーナリズムは大きく変質した。
「ヤフーが変えた」と言ってもいいだろう。
従来はそれぞれの新聞や雑誌が、自分たちの看板のもと記事を並べていて、読者はその看板と見比べて信憑性を判断していた。
しかし、ヤフーが各社から買った記事を水平に並べることで、そこでニュース価値の「再編」が行われるようになった。
ヤフーという新しい「紙面」に並んで、今度は他社のニュースとも競わなければならない。

当然、各社は記事を読まれたい=アクセス数を稼ぎたいので、見出しを工夫する。
たいていはセンセーショナルになっていくことになる。
「大手でないメディアがアクセス数を稼ぎたいと思ったら、センセーショナルにせざるを得ない」
ITを主な守備範囲とするメディアの記者(笑)がそう言っていたのを聞いたのは3年半ほど前のこと。思えば先見の明のある発言だった。
今やasahi.comだって「昔はこんな見出しのつけ方しなかったよなあ」というセンセーショナルな見出しをばんばん張っている。

■twitterと「広め手」の登場
さて、一気に急成長してきたtwitter。
twitterはTime Lineの概念が新しかった。速報に向く。そしてリツイートにより、情報の伝播が非常に早い。多くの人が興味を持つテーマであればあっという間に広まる。時間軸中心設計の勝利だ。
twitterに組み込まれたリツイート機能は、従来「2ちゃんねる」「はてなブックマーク」などが行っていた、コンテンツを広める「ミドルメディア機能」をあらかじめビルトインしたもので、「メディアの拡張」といえる。ユーザーは簡単に「広め手」になれる、という新しい役割を得たのである。
これらの組み合わせにより、社会の関心事と時間軸を合わせることのできる個人の発信力が高まる。それが、セルフ・ブランディングに最適のツールであると言われるゆえんだ。

フリージャーナリストが存在感を世に示そう(あるいは、仕事を得よう)と思ったら、今までは週刊誌・月刊誌などの雑誌媒体に原稿を書き、名前を知ってもらうしかなかった。まず雑誌に書ける立場になるまでに訓練が必要で、書くことになれば編集者から事実の押さえ方から文章の書き方までしごかれる。休刊してしまった講談社の『月刊現代』の厳しさは語りぐさだ。私も一度経験してみたかった。

ところが雑誌媒体の相次ぐ休刊と縮小と入れ替わりでtwitterやネット媒体が普及してきたことで、その構造が変わってきた。自分の取材した情報を書き込むことで認知を高めていくセルフブランディング手法をとるフリージャーナリストが出てきたのである。

基本的にいいことである。

しかし、問題点もないわけではない。
それは「編集者の観点の不在」である。
自分が書いてアップすれば公開されてしまうだけに、当人の「実力」がモロに出てしまう恐ろしさがあるのだ。

■刺激優先の「書き手」「広め手」「読み手」のこわさ
例えば私が見ていて恐いなと思うのは、「ウラをとらない」人だ。
自分が直接見聞きした事実でないもの(たとえば、取材源Aから聞いた事実)は、それが本当なのか吟味する必要がある(たとえば、別の取材源Bに聞いて、同じ話だったら、一応それは事実であると考えられる)。これを「ウラを取る」というが、それをぜずに、人から聞いた話をぱっと書いてしまう。

今週あった例でいえば、検察によるある政治家の捜査について、前内閣の法務大臣が、検察を指揮する「指揮権発動」を行ったという話だ。twitterに投稿されると、リツイートで一気に広がった。
しかし、司法に関する知識がある人ならば、指揮権発動が過去1回だけしか例がなく、司法権への政治の介入は憲法問題に直結するだけに、いかに政治的に重いか、そして歴史的な政治と検察の緊張関係、というキーワードが即座に浮かんで、まず眉に唾をつけるだろう。仮に新聞社のデスクがその記事を読んだら、「ウラは取ったのか?」と怒鳴られるだろう。雑誌編集者だったら、根拠を書くことを求めるだろう。
検察庁を所管するのは法務大臣であり、通常の官庁であれば所管大臣に指揮権があるが、検察は司法権の一翼を担っているので独立している必要がある。そこで、原則として法務大臣は検察を指揮せず、特別の場合のみに指揮できるとした。具体的には、個別の事件に対する「指揮権発動」については、法務大臣は検事総長のみを指揮することができると決められている(検察庁法14条)。
ということは、「その話は本当か」「実際に指揮は行われたのか」について、ウラをとっておく必要があるのだ。

ネットでいったん広がった情報を取り消すのは難しい。この件では元検事の専門家が、「指揮権発動は考えにくい」という書き込みを今朝(5月20日)していたが、前の「元法務大臣が指揮権発動」のツイートを読んだ人が、必ずしもそれを読む保障はない。

編集の存在するメディアは、そういうフィルターを経ることによって誤報を出しにくくする仕組みを持っている。しかし、twitterあるいはネットで不用意なことを書いてしまうと、あっという間に広まってしまう。この原稿の執筆時点でいえば、昨日(5月19日)から広がった「宮崎の口蹄疫で、感染源とされる農家の主人が自殺」というデマもそうだ。これも間もなく「根拠がない」という情報が広まって沈静化したが、受け手、そしてtwitterならではの「広め手」のリテラシーや意図のあるなしが浮き彫りになった、ネットコミュニケーションを考えるうえでは非常に興味深い事例となった。

■twitter記事がリアル社会と衝突するとき
長い目で見れば、不確かな情報を流すジャーナリストは淘汰されるのだろうが、もうひとつ大きな問題がある。
それは訴訟リスクだ。名誉毀損で訴えられたら、個人はたまらず吹っ飛ぶ。TLを見ていると、少しそのあたりがルーズなように思える。
ネットでは評判の悪い大メディアのメリットは実はここにある。編集機能でウラをとる作業を挟んでいるので、そこで訴訟リスクを減らせるのと、多少訴訟を起こされても経営がびくともしないから、権力(公権力とは限らない。巨大企業だってそうだ)に対する批判ができる。経営規模が小さい会社ではなかなかそうはいかない。

もちろん、現実は理想通りなんかではないのはご承知のとおりだ。しかし、旧来メディアがなくなるか、規模を縮小してしまえば、このような批判記事は出にくくなることも考えるべきだろう。

私はライターを名乗っているが、キャリアは浅く、書いているのは独立系の雑誌なので旧来メディアとのしがらみもない。だから、個人的には新しいジャーナリズムに活路を見いだしたいと思う。しかし、ある程度質を伴わないと、個人でやっているジャーナリストは、簡単に自らの首を絞めることになるということも自覚しておくべきだろう。そういうわけで私は、「ネットメディアがあれば、ほかは要らない」「組織ジャーナリズムはいらない」という考え方にはくみしないのである。

付言すれば、twitterなどに書き込むリスクは、ジャーナリストだけが負っているわけではない、というところにも要注意だ。
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