【書評】'The Self Illusion'
自分とは何者なのか。かなり大げさで哲学的な問いですが、誰でも一度は感じたことのある疑問ではないでしょうか。しかしそもそも「自己」の存在から疑ったことがある、という人は少ないでしょう。ところがそんな大前提とも言うべき「私はここにいる」という感覚が、脳がつくり出した幻想だとしたら――今回ご紹介する'The Self Illusion: How the Social Brain Creates Identity'は、私たちの自己認識を大きく覆す、ある意味で怖い一冊です。
The Self Illusion: How the Social Brain Creates Identity Bruce M. Hood Oxford Univ Pr (T) 2012-05-23 売り上げランキング : 74092 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
著者のブルース・フード氏は、ブリストル大学実験心理学部認知発達研究センター所長を務める人物で、『スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている』という著書もある方。いい加減な学者ではなく、カルト宗教や自己啓発のたぐいでもありません。いたって真剣に、様々な研究結果を引用しながら、いかに「自己」があやふやな存在であり、私たちが思うほど主導権を握ってはいないのかを解説してくれます。
例えば無意識の重要性について。有名な事例なのでご存知の方も多いと思いますが、実は意識が「こうしよう」と考えるよりも僅かに早く、脳内で反応が起きていることが様々な実験によって明らかになっています。つまり意思決定とは「自己」が主導権を握って行うものではなく、潜在意識で先に何らかの決定が行われて、それが意識されて「こんな意思決定をしよう」という思いに至るという流れで起きるものなわけですね。私たちが意識していないだけで、潜在意識下では膨大な情報処理が行われており、「自己」は最終的な結論を渡されるに過ぎないという状況(『ウェブはグループで進化する』の中でもこの辺りに関する解説がありました)について、本書は「自己とは司令官ではなく、スピンドクター(情報を都合よく解釈して人々を扇動する人物)にすぎない」という心理学者スティーブン・ピンカーの言葉を紹介しています。
また本書が重視するもう一つの要素が、他人や社会の存在です。私たちは自分自身で意思決定しているように思えて、意外なほど他人の言動や、周囲の期待に影響されてしまうものだ――というのですが、こちらは改めて考えてみれば驚きではないでしょう。NHK・Eテレの人気番組『ピタゴラスイッチ』に「ぼくのおとうさん」という歌があるのですが、こんな風に歌詞が展開してゆきます:
おとうさん おとうさん ぼくのおとうさん
かいしゃへいくと かいしゃいん
しごとをするとき かちょうさん
しょくどうはいると おきゃくさん
(中略)
おとうさん おとうさん うちにかえると…
ぼくの おとうさん
本書の解説を読んだ時に、僕の頭に浮かんだのがまさにこの歌詞でした(笑)。 会社では部下を怒鳴りつける厳しい上司であっても(僕は怒鳴りつけられる部下の方ですよ)、家に帰ると優しいパパの顔を見せると。「おとうさん」という人物の「自己」はどんな場合にも変化することのない、硬い固形か何かではなく、置かれた環境や文脈によって様々に移り変わる存在です。その切り替えは自然に行われるため、あたかも自分自身の意思で行っているかのように感じられるかもしれませんが、実際には環境の方が主導権を握っている場合が多いことが解説されています。
このように、「自己」とはそれを取り囲む様々な要素によって生み出されるものであり、決して独立して存在するものではありません。それを示すものとして、本書にこんな象徴的な図形が登場します:
真ん中に白い四角形が見えると思いますが、実体を持っているのは、当然ながら周囲にある扇形の図形の方。そして「自己」とは真ん中に見える(ような気がする)四角形の方であり、扇形が消えてしまえば、一緒に消えてしまう存在です。
僕はちょうど旅行中にこの本を読んだのですが、旅先での経験は「幻想としての自己」を実感させるに十分なものでした。日常生活において、私たちは様々な要素を通じて「自己」を確認することができます。オフィスという環境を通じて。そこにいる同僚とのやり取りを通じて。自宅・自室の環境を通じて。そして家族との会話を通じて――まさに先ほどの歌「ぼくのおとうさん」で示されているように、ありとあらゆるものが自分の存在(それは場面によって次々に切り替わるものではありますが)を感じさせてくれるわけですね。ところが旅先では、一緒に旅をしている家族との関係以外、日常における「自己」を感じさせてくれるものはありません。まるで目隠しされて、手探りで「自己」を再確認しなければならないような、そんな不確かな状態が旅行中に感じる心細さの本質なのでしょう。
それでは、現実には無意識や周囲の環境に行動を決定されているにも関わらず、なぜ脳は「自己」の存在を感じさせるようなことをするのでしょうか。本書は自己を「幻想」であると解説する一方で、たとえ幻想であったとしても、自己が私たちにとって非常に役立つものであることも解説してくれます。
例えば選択の問題。これも最近、シーナ・アイエンガー氏の『選択の科学』が話題になったのでご存知の方も多いでしょうが、人間は選択肢がある状態だと(たとえ結果的に同じ状況に到達するにしても)満足感を感じるという研究結果が出ています。もしかしたら人間は、他の多くの動物と同様、自らが置かれた環境に対してほんの僅かな抵抗しかできない存在なのかもしれません。しかしそれに対して、何も考えなかったり、あるいはあきらめたりして環境に流されるままになるのではなく、「自己」が決定権を持つのだという信念を抱いて行動すること。それこそが、人間が少しずつ進歩を続ける上で重要な役割を果たしてきたのでした。
本書は人間の意思決定の仕組みを論じたものとして、マーケティング担当者にとって参考になる一冊であると思います。また様々な心理学実験や、脳の仕組みの不思議さに興味がある方にとっては、新たな知的刺激を与えてくれる一冊になるでしょう。ただ個人的には、人間という存在の本質を考えるものとして、時間をおいて繰り返し読んでみたい一冊であると感じました。
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