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震災が「言論空間としてのソーシャルメディア」を成熟させる

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「震災が起きてからツイートする回数が減った」という方を、最近何人か見かけました。もちろん僕が観測した限りですので、全体的な傾向とは必ずしも言い切れませんが、「つぶやきづらさ」を感じている方は少なくないのではないでしょうか。

「つぶやきづらさ」の大きな理由となっているのが、震災後に発生した様々な論争です。原発は推進すべきか、それとも廃止すべきか。電力不足には再生可能エネルギーの推進で十分なのか、それとも社会システムの根本的な変革が必要なのか。悪いのは電力会社だったのか、政治だったのか、それとも彼らを放任してきた国民全ての責任なのか、等々。いずれも重いテーマであり、一朝一夕に結論が出る話ではありません。しかし議論しようとしても、感情的な意見が飛び交うだけで精神的に疲弊してしまう恐れがあり、かといって冗談を言えば「不謹慎」になってしまう――それがツイートの回数を減らす結果になってしまっているわけですね。

ソーシャルメディアというのは、自分に似た傾向のある人々(俗に言う「同じクラスタに属する人々」)とゆるやかな関係を結び、その中で意見を発する空間です。従ってもともとは非常に居心地の良い場所であるはずですが、震災という共通体験が大きな横穴を開けてしまいました。その結果、あらゆる人々が議論できる土台が生まれ、通常であれば目にしなかったであろう意見までが目に見えるようになっている、というのが震災後の状況ではないでしょうか。

また震災という特殊な状況は、人々の「情報を得たい」という欲求を通常以上にかき立てます。例えば先日、東京電力から発表されたPDFファイルがテキストコピー不可に設定されていたことをやり玉にあげ、「隠蔽体質だ!」と訴えている記事を目にしましたが、改変防止などの理由からリリースするPDFをコピー不可にする企業は別に珍しくありません(もちろんこのような状況にも関わらずコピー不可にしたことは問題だと思いますが)。それが即座に「隠蔽体質の証拠!」と受け取られてしまうのは、いまのある種昂揚とした雰囲気が促したものと言えるでしょう。

こうして誰でも議論に参加できる共通テーマと、参加したいというモチベーション、そして参加するための場所が揃っているのが震災後のソーシャルメディアではないかと感じています。そこに簡単には結論が出ない、時には哲学的な側面にまで踏み込まざるを得ないイシューが載せられるのですから、対立が起きない方が不思議でしょう。

しかし逆に言えば、そうした状況でも議論を続けて行く力を身につける機会を、私たちは手にしているのではないでしょうか。震災時にネットが活用されるようになったのは21世紀になってからであり、さらにソーシャルメディアの活用という点では、海外も含めてまだ少ししか事例はありません。災害発生時だけでなく災害からの復旧・復興時も含め、ソーシャルメディアを建設的な言論空間として育てて行くためにはどうすれば良いか、まさに実体験から学ぶ機会に私たちはいるのだと思います。

残念ながら、この記事のタイトルは期待を込めてつけたものであり、確実に「成熟する」という保証はありません。しかし私たち一人ひとりが、この論争を単なる罵りあいで終わらせない努力を続けていかなければならないと思います。さらに楽観論を許していただければ、そうして生まれてきた「言論空間としてのソーシャルメディア」は、社会の様々な問題に解決策を見出す場として役立てることができるのではないでしょうか。

【○年前の今日の記事】

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