Facebookでは、1日1,000人以上が亡くなっている
ユーザー数が6億人を突破したと言われているFacebook。「もはや1つの国家だ」などと言われることも多くなりました。もしFacebookが国家なのだとしたら、生まれる(新規登録する)人ばかりでなく、亡くなる人も当然いるはずです。それではFacebook上では、1日に何人ぐらいの人が亡くなっているのでしょうか?答えは次の記事の中で紹介されています:
■ Cyberspace When You’re Dead (New York Times)
タイトルは「死後のサイバースペース」とでも訳せるでしょうか。これまでも何度か話題になってきましたが(このブログでも以前「サイバースペースと死」という記事を書いています)、「亡くなった人々の遺したデジタルデータをどう扱うか」というテーマについて、詳細なレポートを行っている記事です。とても内容全体については追えないのですが、とりあえず冒頭の問題に戻りましょう。
記事の1ページ目で、こんなデータが紹介されています:
One estimate pegs the number of U.S. Facebook users who die annually at something like 375,000. Academics have begun to explore the subject (how does this change the way we remember and grieve?), social-media consultants have begun to talk about it (what are the legal implications?) and entrepreneurs are trying to build whole new businesses around digital-afterlife management (is there a profit opportunity here?).
ある研究では、1年間に亡くなる米国人Facebookユーザーの数は37万5,000人ぐらいだと推定している。学者達はこのテーマについて研究を始め(個人を偲ぶ方法にどのような変化が生じるのか?)、ソーシャルメディア・コンサルタント達は議論を始め(法制度にどのような影響が出るか?)、起業家達は「デジタル死後の世界」管理に関するまったく新しいビジネスを構築しよう(利益を得るチャンスがあるか?)としている。
ということで、米国人ユーザーだけですが、1年間で37万5,000人という推定値が挙げられています。365日で割ると約1,000人ですから、Facebook全体ではそれ以上の人々が1日に亡くなっていることになりますね。ちなみに日本の人口はおよそ1億3,000万人で、昨年度に亡くなった人の数は約119万人と推定されていますから、この数はそれほど驚きの数字というわけではないでしょう(Facebookの方が「人口」は多いのに死亡者数が少ないのは、①「幽霊会員」的な非アクティブユーザーが多い、②若い人が多いので死亡率が低い、③そもそも申告しているわけではないので死亡が把握しにくい、などの理由が考えられます)。いずれにしても「故人がFacebookにアカウントを開設していた」というのが、もはや例外ではない時代が到来しているわけです。そこで学問や哲学、そしてビジネスといった面から、この課題に対するアプローチが始まっていると。
繰り返しになりますが、「亡くなった人々が遺したデジタルデータをどう扱うか」というテーマは決して目新しいものではありません。FacebookだけでなくMixiなどでも、故人のアカウントを残そうという動きが起きていますし、有名な例では飯島愛さんのブログ『ポルノ・ホスピタル』がそのまま残され、死後もファンが集う墓標のような役割を果たしています。ただ新しい側面として指摘できるのは、これまで以上に膨大かつ私的(悪く言えば些末)なデータ、すなわち「ライフログ」的な情報がネット上に集められるようになってきている、しかも有名人だけでなく誰もがそれに参加するようになっている、という点ではないでしょうか。
そして既に多くの人々が、ネットとリアルの境界線を意識せず、ネット上の情報を自分の人格の延長線上にあるものとして捉えています。また他人の「ネット人格」も、その人のリアルな人格の一部として捉えるようになっていると言えるでしょう。そのような状況で、リアルの側にある人格が無くなってしまったとしたら、残されたネット側の人格はどのような存在として扱うべきなのか――なかなか哲学的な問いです。
以前、瀬名秀明さんが書かれた小説『エヴリブレス』をご紹介したことがあります。若干ネタバレになってしまいますが、この本でもネットとリアルの人格の境界線が無くなること、そしてリアルの側が「亡くなった」ときに起きる出来事が描かれていました。そして残されたネット人格が(発達した情報技術によって)普通の人格のように振る舞い、存在して行くという世界が展開されるのですが、そこまで技術が進まなくても、残された情報の断片だけで私たちは十分に「人格」を感じられるのではないでしょうか(『ポルノ・ホスピタル』が現在果たしている役割もその一種と言えるでしょう)。また以前、高齢者の夫婦でどちらかが先に亡くなってしまった際に、残された側の心をケアするため故人の映像や音声等を情報技術で再現するという取り組みが行われていることが報じられていましたが、同じような効果を意識して故人のネット人格を残すということが行われるかもしれません。
いずれにせよ、様々な形でライフログがネット上に残るという世界が現実のものとなり、誰もがそこに参加できるようになったいま、「死」や「弔う」という概念自体も大きく変化することでしょう。そしてその裏返しとして、私たちがネット上に情報を蓄えるという行為も、また違った意味合いを帯びるようになるのではないでしょうか。
ちなみにNew York Times紙では、以前もこんな記事が掲載されていますのでご参考まで:
■ Facebook After Death
■ Death on Facebook
■ As Facebook Users Die, Ghosts Reach Out
【○年前の今日の記事】
■ iPhoneが家庭用エネルギー管理市場のスターになる日 (2010年1月20日)
■ YouTube が(検索サービスとして)Google を超える日 (2009年1月20日)