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本が次世代メディアだった時代

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Polar Bear の方でも書いたのですが、いま『本を読むデモクラシー―“読者大衆”の出現』という本を読んでいます。その中で、18~19世紀のヨーロッパに存在していた「読書室」という商売(持ち帰り禁止の有料図書館のようなサービスで、料金を払うことで施設内で本が読める)が解説されているのですが、そこではこんな本の貸し方が行われていたそうです:

というのも、読者の熱狂をものすごく駆り立てるものならば、貸本屋は、たくさんの読者の熱意に応えようとして、一巻を三分冊にすることまでも余儀なくされているのだから。その場合、読者は一日単位ではなくて、なんと時間単位で読み賃を払うことになる。

この箇所は『タブロー・ド・パリ』という18世紀のパリの様子を紹介した本からの引用なのですが、当時はまだ高価だった「本」というメディアを庶民が利用するために、「コンテンツのバラ売り」的な手法が生まれていたことが紹介されています。まぁ「人気の書籍はできるだけ回転させて稼ごう」というのが読書室経営者側の意図だったと思いますが、結果的にコンテンツを柔軟な形で利用することが可能になっていたと言えるでしょう。

当時のヨーロッパでは、まだ著作権や出版ビジネスといったものが未成熟であったために、このようなことが可能だったのかもしれません(この辺の知識についても全く持ち合わせていないため、間違いを言ってしまっているようであればご指摘下さい)。仮にそうだとすれば、現在のインターネットやデジタルメディアがそうであるように、当時の「本」というメディアは非常に柔軟な存在だったのでしょう。コンテンツ提供者の意図を無視して、一冊の本を三分割してしまうなんて状況は、著者・出版側にとっては悪夢かもしれませんが。

いま新聞や雑誌、テレビなどといった従来型メディアの将来が不安視されています。しかしそれが生まれた当時の状況を見返してみたら、意外と柔軟な運用がされていたことを再発見できるのかもしれない――『本を読むデモクラシー』を読んで、そんなことを感じました。硬直化する前に試されていた様々なアイデアの中から、旧メディアのあり方を再定義し、存続を可能にするためのヒントが見つかるかもしれません。

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