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価値はどこで生まれるのか

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「誰もいない森の中で木が倒れたとしたら、木の倒れる音がしたと言えるだろうか?」 -- 今日の ITmedia の記事を目にした時、ふとこの有名な問いを思い出しました:

Google CEO、オールドメディアとのギャップを語る (ITmedia News)

YouTube の著作権問題をめぐり、Google CEO のエリック・シュミット氏が発言した内容をまとめたものです。大手メディアとのコンテンツ契約がなかなか進まないことについて、シュミット氏が「Google と従来型メディアとの間には見解の相違がある」と主張されているのですが、中にこんな一節があります:

従来型メディアは自社のコンテンツに価値が内在していると主張し、Googleは「それを証明しろ」と言っていると同氏(※注:シュミット氏)は話した。「これではたいていの場合対話が難しい」

 「結局、製品価値は人々がそれを見た時に決まる。視聴者はクリックで投票し、どこにアクセスするかで投票する」

ウェブの世界では「グーグル八分」という言葉がある通り(そう言えば本のタイトルにもなりましたね)、「コンテンツが見つかるかどうか」は有力検索エンジンによって大きく左右されます。たとえどんなに良質なコンテンツであっても、見てもらえなければ存在しないのも一緒(すなわち「誰もいない森の中で倒れた木のたてた音」)ですから、「コンテンツの価値は検索エンジンが決める」と言い換えることができるでしょう。もっとも最近では、ソーシャルブックマークなどといった新しい「アクセス醸造装置」も登場してきていますが。

その一方で、コンテンツ自体に本質的な価値が含まれているのだという主張も正しく感じられます。例えば「有名じゃないけど、自分だけのお気に入りの一本」という映画は、誰しも持っているのではないでしょうか。そんな作品を「みんなに知られていないから価値はない」と断定するのは、「誰にも聞かれなかったから木の倒れる音はしていない」と言い切ってしまうのと同じことでしょう。

これまでは、提供者側が一方的に「このコンテンツには5,000円の価値がある」などと主張することで、この問題を解決してきました。対価が価値を示すスケールになっていたわけですね。しかし目の前で木が倒れたとしても、ある人は「大きな音がした」と言い、別の人は「いやまったく聞こえなかった」、また別の人は「木じゃなくてクマが倒れる音がした」と言うでしょう。同じように、同じ5,000円のDVDを観ても、それが5,000円に見合う価値を持っていると感じるかどうかは人それぞれです。その意味で、「音を聞いた人」が価値を決める方式の方が、理に適っていると思います。

ただし後者の方法だと、「確かに木の倒れる音がした」と納得してもらったときには、そのコンテンツが消費されてしまっていることも事実です。合理的に価値を決めるプロセスから、どうやって対価を得るのか -- もし世の流れが Google の主張する方向に向かうなら、冒頭に掲げた「誰もいない森の中で木が倒れたとしたら、木の倒れる音がしたと言えるだろうか?」というような哲学的問題を議論するよりも、 この点を考える方が優先されるべきだと思います。

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