プレゼントの価値はどこにあるか
少し前、ある女性がTwitterでこんなことを言っていた。
推しているタレントに誕生日のプレゼントを上げたいけど、何がいいか分からない。
「本業は衣装屋さんなんだから、何か作ってあげたらどうだ」と言うと、「手作りの物には価値を見出さない人だから駄目」と言う。
そこでこういうアドバイスをした。
既製品から選ぶとしたら、高価なものか、希少なものになるが、高価なものは大変だろうから希少なものにしろ、そして、これを探すのにどれだけ大変だったかを軽くアピールしろ。
いろいろ考えてみると、プレゼントを含めた「好意」は時間で計れるように思う。年収1千万円の人が払う1万円と、年収380万円の人の1万円は決して同じではない。それは、同じ金額を稼ぐために使う時間が違うからだ。
同志社を創立した新島襄が、米国在住時代「日本に学校を作りたい」と寄付を募ったとき、「これは帰りの汽車賃だが、歩いて帰るのでこれを寄付する」と2ドルを差し出した有名な話がある。当時としても2ドルは決して大きな金額ではないが、歩くことによる時間の損失が美談となる。
ちょっと検索してみたところ、当時の米国では、2ドルの切符は160マイル(200Km)程度になるらしい。これは、およそ東京から静岡までであり、とても1日で歩ける距離ではない。「手持ちの2ドルを全額寄付したら汽車賃が足りなくなるが、歩いて帰るから大丈夫」くらいだったのではないだろうか。
閑話休題、一般に、手作りの物は、それだけ手間つまり時間がかかるため価値があるとされる。しかし実際のところ、市販の製品よりも高品質な手作り品というのは滅多にない(先の衣装屋さんは市販のものと同等の品質の衣装が作れると思うのだが)。
市販の製品に価値を付けるとしたら、その製品にどれだけ自分の時間を費やしたかが大事になる。あちこち探し回ったとか、入手するのにどれだけ苦労したかとか、予約するのにどれだけ時間がかかったかとか、そういう問題である。
先日から、ニット帽を編んでいた。ブログの更新が滞っていたのはそのせいだ。
母が編み物の講師をしていて、ちょっと習ってみようと思ったのが25年ほど前。最初は「マフラーでも」と言ったら「そんなつまらないものはやめなさい」と一蹴され、いきなりセーターを編むことになった。だいたい1シーズンに1着くらい編んで、5、6着は作っただろうか。ほとんどは誰かに上げたが、自分用も3着ほど残っている。
しばらく編んでいなかったが、ふと思い立って再開した。シーズン内に3つ作りたかったので、セーターは断念。母が禁止したマフラーでも編もうかと思ったところ、高校の後輩から「帽子にしなさい」と強く何度も勧められ、編み図まで持ってきてくれたので帽子にした。既にマフラーを少し編みかけていたのだが、あまりの単調さに嫌になっていたこともある。
編んでみると、マフラーよりもはるかに簡単で、しかもおしゃれである。それだけ時間がかかっていないということなので、プレゼントとしての価値は大したことないのだが、それでも1週間くらいはかかっているから、推しへのプレゼントとしてはまずまずだろう。
2着ほど試行錯誤があって、3着目をプレゼントした。さらに2着編み上がって、ノルマを達成したのでブログを書いている次第である。もう1つ何か編むつもりだが、何とかなるだろう。
気付いたら、来週はクリスマスである。プレゼントに悩んでいる方は、「どれだけ時間を使ったか」をアピールしてみてほしい。ただし、嫌味にならない程度に。