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秋葉原通り魔事件の公判の記憶

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また悲しい事件があったそうです。広島市のマツダ本社工場に乗用車が侵入、次々と人をはね一人が亡くなりました。

実は以前、秋葉原の通り魔事件の公判を傍聴して参りました。時間の流れか、平日だからか、大きな法廷だったからか、抽選になることなく傍聴券を受け取り開廷を待ちました。

内容の詳細についてはいくつかの新聞がまとめていますので私がここで詳しく語ることはしません。一言だけ、ある証人の方(目撃者)の言葉が印象に残りました。

「あなたが帰ってくる場所はもうないですから。」

最終的な判決がいつになるかはわかりませんが、これまでの報道や公判内容などからすればこの言葉のとおりになるのではないかと思います。それでもきちんと手続きが踏まれ、検察官、弁護士、警察官、証人、裁判官と多くの人がこの事件に関わっています。どうしてこうなってしまったのだろう、そんな思いが頭から離れませんでした。

私は確かに東京地裁の第104号法廷の傍聴席に座っていました。しかしテレビで見た被告が同じ部屋にいても、なぜかこれが現実に起きた出来事であると感じられませんでした。

あの事件から我々は何かを学んだのか。それとももっと偉い誰かが素敵な解決策を考えてくれると待っているだけなのか。それは政治家なのか、企業家なのか、学者なのか。

以前からそういったもやもやを感じており、いっそのことと思い傍聴してみましたがもやが晴れることはありませんでした。今もなおその思いは続いています。

Comment(3)

コメント

SY

IT関連の仕事をしていると判るのは、他人の言うことを正確に理解することは非常に難しいということです。アプリの仕様をお客さんからヒアリングして仕様書に纏めて、それをお客さんに見せてみると、指摘が山ほど来るというのは業務系のシステム開発をしている人には、誰でも経験があることだと思います。
秋葉原通り魔事件は自分の能力が低く扱われた犯人が起こした事件ですが、私の捉え方はむしろ逆で、現実を正しく認識できない犯人の能力こそが引き起こした事件だと思っています。個人の認識と現実の乖離は、その程度が引くときは収入の低さをもたらし、乖離が大きくなると連続殺人等の重大な犯罪を引き起こす。そういう類のものでしょう。
逆に、現実を高度に論理的に把握できれば、たとえば業務系SEやマネージャとして非常に高い収入が得られ、そういう人のその種の犯罪の犯罪率は他の人に比べて極めて低いと言えます。
まあ、こういう話は犯罪プロファイリングなどを読めば当たり前の話なのですが。
少し深い話をしすぎたかもしれません。私も秋葉原通り魔事件については考えさせられた人間なので、考えた事を少しだけ書いてみました。

そーき

先のSYさんの言われることはその通りだと思います。
私は現実を正しく認識できない人は
社会を構成するきちんとした大人として
問題があると思っています。
ただ私はこのような犯罪を思うとき強く気にしていることがあります。
それは「犯人や犯罪を自分たちとは無関係と思わない」ことです。

もちろん私も犯人は悪く償うべき責任があると思っているし、
自分は犯罪はもちろん他者の迷惑になる行為も極力しないよう生きています。
けれどいくら残念でも犯罪者と私たちは同じ人間で地続きです。
決して上っ面の「犯人は社会の被害者」という見方ではなく、
”私たち一人ひとりの生き方、それによって形作られる社会のありようが、
 他人に迷惑をかけたり、傷つけたりすることを容認していないか”
と自分にもつながっていることとして捉えることが、
犯罪のない世の中を作る一つの、けれど不可欠な方法だと思います。

みんなが自分を大切に、そしてその気持ちを足がかりにみんなを大切にする、そんな社会でありたいですね。

SYさん、そーきさん、コメントありがとうございます。
私も以前はSYさんと同じく「自分の生きる世界」に順応できない人がいて困ったもんだな、というような思いでした(コメントいただいた真意をはかりそこねていましたらすみません)
しかし30歳が近づいて自分が内臓の病気したりくじけたりした経験の中で、世界の厳しさに負ける人がいても当然だよね、みたいな思いを抱き始めました。つらいことですが、ホームレスになってしまったり、満員電車に飛び込んだり、他人に暴力をふるってしまったり、アンダーグラウンドな世界に参じたり、という人もいて、そこが「自分の生きる世界」なんではないかと思うに至っています。本件に限らず私は過去に何度か傍聴に行っています。SYさんの仰る通りシステム系の仕事には論理が極めて整然とした部分と、ウェットでよくわからない部分とがあると思います。そうすると論理のある世界が素晴らしいように思えてきます。そして道理を引っ込ませる「無理」の世界が嫌になります。そんなときにまったく自分が理解できない世界が現実に存在し、自分がそれをもっとも強く実感出来る場所というのが「傍聴」となっています。そーきさんのおっしゃるような「つながっていることとして捉える」というのと同一と思います。
傍聴に向かう前はプロファイリングのことが書かれた本も興味深く読んだことがあり、SYさんともそーきさんとも何かを共有できた思いで嬉しく感じました。ありがとうございました。

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