山梨の事例から考える。自分の快楽追求だけでなく社会全体の快楽を考え行動してもらうにはどうしたら良いでしょうかね?
山梨の感染者の行動が物議を醸しています。
- 新型コロナ:陽性の女性、バスで上京 山梨県が利用自粛要請も:日本経済新聞
- 山梨に帰省の感染女性が虚偽報告「犬心配だった」 上京は陽性判明後 濃厚接触者も陽性
- 実は感染知っていた 帰省先の山梨から東京に戻った女性 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル
山梨県も、女性に対する批判や中傷がインターネット上で相次いでいるとして、「女性や家族に配慮してほしい」と呼び掛けたとの報道もあります。
今回の山梨の件が問題化する以前に、感染者たたきや感染者の謝罪を批判する記事は幾つか公開されています。
今回騒ぎになっている山梨県の事例において、わたし個人が問題では?と感じるのは以下の点です。
- 味覚・嗅覚異常を自覚しながら休まず出勤していたこと
- 帰省自粛が要請されているGW期間に帰省したこと
- 感染が判明した後に公共交通機関を使い東京に戻ったこと
- 一連の過程で虚偽の申請をしていたこと
つまり感染したことではなく、緊急事態宣言などこれまで政府が訴えてきたことについて、見事に無視した行動の連続に対して多くの人が反応していると考えるのは間違っているでしょうか。
唐突ではありますが、今回の問題を功利主義を使って考えるとどうなるのか、高校生向けの教材を使って考えて見たいと思います。
功利主義の祖であるジェレミ・ベンサムといえば「最大多数の最大幸福」
ベンサムは自分の快楽ばかり追求して、社会全体の快楽をかんがえようとしない人間がいるとして、社会の幸福と個人の利己的快楽を一致させるためには制裁(サンクション)による外的強制力が必要だと考えました。
制裁の種類は4つあり、
- 物理的制裁:肉体の苦痛など
- 政治的制裁:刑罰など
- 道徳的制裁:社会的非難など
- 宗教的制裁:神罰など
ベンサムは「政治的(法律的)制裁によって個人が社会の幸福に合致して行為するように導くことが必要だ」としています。
量的功利主義のベンサムに対し、質的功利主義のJ.Sミルも欠かせない存在です。
J.Sミル「人間は決して自己中心的ではなく、社会的感情などの利他心を持つ生き物だ」と主張していますが、今回の山梨の事例から残念ながら社会的感情などの利他心などを感じることは出来るでしょうか...
J.Sミルは功利主義者と同時に自由主義者で、特に大事にしたのは個性を伸ばすこと。
ただここには条件が一つあり、個人の自由は「他者に危害を加えない限り」制限はされず最大限保障されなければならないという条件付きであるということです。
コロナの感染を知りながら出歩く行動は「他者に危害を加える可能性のある行動」に該当しないのでしょうか...
そうであれば、やはり道徳的制裁(社会的非難など)に晒されるのは致し方ない側面があるように思います。
ただ、その道徳的制裁のどこまでが妥当なのか?というのは別な議論が必要でしょう。
感染者をたたく風潮が広がることで、感染経路を追えなくなる可能性が出てくるから批判するべきはないという主張については頷ける部分もあるのですが、求める結果を
- 非常事態宣言を収束させるに足る結果を出すための行動変容を促す効果を重視するのか?
- 感染対策をいかに合理的・効率的に行うことを重視するのか?
どちらの立場で論ずるかで主張は大きく変わってくるものと想像します。
問題の本質として厳しい罰則を設けてもゼロにはならないのだろうと思いますので、北風と太陽のような話になる可能性もあり得るかもしれません。
では、感染者を批判しないとした場合、どのようにすることで今回冒頭で紹介したような、これまで周知されてきたことを徹底的に無視した行動が取れる人たちをどのように減らせるのか具体的な提言も必要ではないでしょうか。
最後に、今日ご紹介したminiいけ先生の動画、【高校生のための倫理】の他に【高校生のための政治・経済】もとてもわかりやすい良質コンテンツなのでとってもお勧めです。