起業してわかったこと、本当に人にやさしくなる。
人にやさしくなりたい
いきなり失礼な話、かもしれませんが、みなさんは本当に人にやさしくなりたいと思わないですか??階段を辛そうに上る高齢者や、子どもとベビーカーを担ぎながら、奔走するママ。なにか大きな失敗のもと、路上生活をよぎなくされた人。人には理由をとやかく言われたくないが、自分ひとりでは、到底抜け出せない状況があります。人それぞれ皆、それを乗り越えるのに必死だと思います。時として人は、その状況を招いたのは、当の本人による "自己責任" と言い切ってしまいます。外野の人は、それはそれでかわいそうだけれども、自分も仕事に家庭にと忙しくしているので、人にかまっている余裕がない!とばかりに、人にやさしくなれない。
この手の問題でやっかいなのは、目に見えるか見えないかの違いです。階段を辛そうに上る高齢者は、目に見えて優しくする対象のように見えますが、当の本人は自身のチカラで登り切りたい!それくらい当然!と強気な場合は、優しさが『有難迷惑』。そんなことはよくある話。やっかいなのは、病気や体調不良、貧困。目に見えずかつ、言い出すにはなにか億劫してしまう。
でも、なぜか人に手を差し伸べたくなる
人間は社会的な動物。人と人が支え合っているのは、明らかな事実。目の前で苦境に苦しんでいる人がいれば、「大丈夫か?!」と思う。ただ、同時に見過ごすという態度もとることがある。そこには、ある程度の言い訳と理由がもう確立している。ただ、なぜか人に手を差し伸べたくなる衝動にかられる。大災害が起きた時には、特に日本人の他人にやさしく手を差し伸べあい、強く生きる姿が美談で語られるよね。ここの間にある、"手を差し伸べる"場合と"見過ごす場合"にはいろんな理由もありますが、資本主義がなにか影響しているように思う。あくまで、一つの要因ね!
人にやさしくなれる方法。それが経営
というと、え!?なんかおかしくない?矛盾ジャン!!と思われるかもしれません。なんせ、上では、苦境で苦しんでいる人を見過ごすのは、資本主義が影響していると言っているのに、人にやさしくなるには、経営。だって、経営といえれば、資本主義の中で生きる、生活の手段の一つ、まさしく権化のような手法だと思われたかも知れません。
カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した。
と、過去のおっちゃん達は、資本主義を定義し、提唱し、実践してきた。労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式。と言われると、もうもはや人になんて優しくなれない。だって、労働を売り続けないと、生活が危うくなる。しかも、それでしか、生活手段がない。人のことにかまうよりも、自分のことで精いっぱい。実際に人類の歴史は、そんなに詳しくないが、資本主義に限らず帝国主義でも、皆が皆、自分のことで精いっぱいで、他社に究極に優しくなれた時代ってないのかもしれない、もしくは、過去の歴史の藻屑となってきているのかもしれない。言い換えれば、いついつの時代は、皆が皆に人にやさしかった!!と歴史家でさえ認める時代なんてない。というか、私は知らないし知る由もない。ただ、私の目の届く範囲にその方法はあった。それは経営だったということ。と、言い出したのはなぜなのか。次回のブログに書くとします。