職業人としてのプロ意識
人間には"花形の職業"という概念がある。それも色濃くある。その花形な仕事をしていることである種のステータスがある。金融系やIT関連なんかでしょうか。「facebookで働いていた」なんてなると、ちょっとフワっと羨ましく、すごいなぁなんて思う。が、果たしてそうなんだろうか。もちろん、憧れる職業やストーリーがあって栄えることがある。芸能人なんかは特にその典型だと思う。だけど、その職業の枠組みに入ることがそんなにいいことなのか。【※faecbookで働くことが良いとも悪いとも思ってなくて、そういう憧れの対象?と私が勝手に思っている憧れを実現することで、自身の人生にとって良いのか悪いのかって話をします】
マーケティングすらもう関係ないテーマですがどうしても、このステータスという言葉には弱い。主語は私を含む似たような人を指しますが、このステータスというのは、大人になればなるほど、活きてくるし使える。このステータスによって、思いもよらないお得なことが起こる。だけど、このブログでは、このステータスや職業の枠を超えて、本当は職業を通じてなにを成し遂げ、なにを得るべきなのかを深く考えさせられたので、それを記事にしたい。誠ブログ関係者の皆様、若干の私用感、お許しください。
滋賀県のある中学校の先生の話になりますがこの数日、事情により実家の滋賀県に帰省した。その際、本当に幸いなことに、数名の同級生が集まってくれた。私が帰省する度に、絶対集まってくれる旧来の友人である。帰省をするようになって10年近く、見事に絶対集まってくれている最強メンバーである。お互い、5,6歳くらいからの知り合いなので、25,6年の付き合いになる。すでに確信しているが、私の人生のおいて、彼らと出会えたことが最も救いであり、奇跡であることは紛れもなく事実である。ただの、仲良しグループだけでなく、運命共同体なのだと思う。彼らの言葉を借りると。
この仲間と共に過ごした小学校からの友人がこのブログの主人公。彼は、まぁー、まじめに"クソ"がつくほどのまじめ。曲がったことなんか、認められないし、自分道をひたすらダッシュで走り続け男からも女からも好かれるレベル。ときどき、そういう彼が、鼻につき、輝かしすぎてもう嫌になるレベル。中学校の時も「教科書をちゃんとやれば、塾なんか行かなくてもイケる!」とその勢いのまま、県内トップ高校に合格。小学校から野球を続けていてトップ高校では野球に精を出し、県内選手権の決勝で最終回、1点差で代打指名されるほどの実力者。もちろん、そのときは私は家族で中継を見ていたが本当に感動する試合だった。
ある弱小野球部の顧問をしているのですが、そこでの指導、教員としての在り方に感動した。あいかわらず、純粋でまっすぐで、もう直視できないほどの正論を当たり前のように、こなすようなその風貌に、私の東京で疲れ切った灰汁(あく)はにじみ出て、ごみ箱に投げ捨てられたような感覚。
実家に帰省している間、お昼の時間だったが、彼に連絡をとり会う約束をした。彼は部活の指導終わりなので、着替えて近くの喫茶店に来てくれたのだが、開口一番に"桜ノ宮高校についてどう思う?やっぱり~"と彼の主張を発言。最初って、久しぶり?とか元気?とかそのへんについて話さない??と思いながら、彼の熱い煮えたぎった教師道の主張は続くが野球つながりということもあり、主張は指導者が故の熱い思いがこもっている。その主張は熱いので、WEBを通じて燃料に引火しないよう、ここで口火を切るのはやめておく。が、彼の野球部に込める熱い思いを覗かせる行動をいくつか紹介したい。
相手のことを思いながら工夫・アイデアを実行していくイチローのインタビューが数日前に新聞に掲載され、ソーシャルやリアル含め人の心を打った。正確には覚えていないが、だれれだれの為にするのではなく、だれかのことを思って行動する、そんな感じの主張だったように思う。彼の行動もまさに、その言葉通りのように思う。
- 野球部員70名強いる別の学校の顧問をしているとき、三年生でも試合に出られない数十名がいる。そんな彼らはただただ練習という試練を乗り越えてもそれを発揮することができない。試合に出してやることも難しい。でもそのままでは、彼らは3年間の野球部を通じて、一体感とか団結を学べるだろうか。チームの為に活動する大切さを学べるだろうか。彼はそんなj事を思い、部活の中で"土木部"を作り、試合に出られない選手には、後輩や学校のためにグラウンドの改造を一緒に手がけた。学校から少ない予算をもらい、マウンドの整備や周りの草狩りから、選手からアイデアを出させて、みんなでする達成感を与えた。とそれだけを聞くと、私が生徒だったら嫌だったかもなぁと思ったが、選手からはそういうリアクションではなく、先生に対する感謝が返ってきたとのこと。それは実際に見ないとなんとも言えないが、先生が自己満足にしていれば、選手の反応まで気を配らないと思う。選手の反応にちゃんと目を向けているその姿にある種の教師道を感じた。
- まだ、彼の行動を続く。今の弱小野球部の顧問に就任してから、彼らのためにできることを行っていく。その動機がすごいのである。私は高校当時、ある先生に救われた経験があるんだが、それを引き合いに、「生徒の一生の一部に関わる先生って人の人生に土足で上がり込むようなもんやねん。それは中途半端な気持ちでやったらアカン!ただの職業として給料をもらう為の教師という仕事してたらあかんねん、そんなやつ去れ!」とまぁ、あんたGTOの鬼塚?(主張は違えど)並みの熱さ。すでに書いたように、彼は言ったことは粛々と確実に実行しきる、半端ない実行者。言われている傍からビシビシと鳥肌もの。
これが久しぶりの再会5分後の出来事である
彼の話は、ほとんどが「生徒」「選手」が主人公のように思う。生徒のために、選手のために、というわけでもない。生徒、選手のことを思って、自分の思う道を真っ直ぐに、進んでいるその姿には感動を覚えた。ふと、我に返る。私はそこまでだれかを思って、自分の考えに突き進んでいるのだろうか。そう、思わされるほど、なにか悔しい気持ちにまでなった。
彼の話はもちろん、まだまだ続く。ひったすら、自論を展開し、言い切った後、生徒指導で家庭訪問があるとその場を立ち去ったのだが、その場はなにか戦乱の後のような気分。やっぱ、あいつすげぇよ。そう思ってしまった。
自分だけを見たときに、ここまでの思いをもって働いているのか。いや、私以外、どの業界、においてもこんな熱い人いるのか。ん?自分のことをだけを見ても、そんな熱い思いあるのか。そう思わされた。が、私が彼の真似事をする必要はない、ただ、職業を通じて得たプロ意識、職業を通じてどうするべきなのかについては、考えさせられたわけである。