UNDO出来ないポラロイドカメラが面白い?!
ここ一年ほど、ポラロイドカメラにはまっている。発売日にCASIO社のQV-10を秋葉原で買って、会う人ごとに自慢したのはもう大昔のことだ。米国のポラロイド社が社運をかけた(最近の企業では、とくにIT系では殆ど聞かない言葉だ)代表的なSX-70モデルはもっともっと大昔の1974年に発売され、現代まで引き継がれているテクノロジー?だ。
ことデジタル系のガジェットに限らず、どうも、未来を探し求めれば、求めるほど、同時に過去への探索の意欲がわいてくる。大した理由はきっと無いと思うが、ちょうどEOS Kissを購入した辺りから、デジカメにこれ以上未来を求めることは無くなり、急激なスピードで過去にその眼を向けるようになってしまった。
比較的壊れやすいが、気合いの入ったSX-70の見事な折り畳みのメカニズムは秀逸だ。デジカメとは違って、ファイダーを幾ら眺めても、確実な写真が撮れる保証のないSX-70の「出来上がった写真を見るまでは安心できない」その素性は、何でも大凡の見通しの効く現代IT社会の面白無さとは対極だ。
有り余るメモリーカードとテクノロジーを背景に、時間をコントロールして、連写で山ほど撮影し、その中から、ベストオブベストを選び出せるITテクノロジーカメラと違って、たった1枚の写真の出来上がりを真面目に少し心配しながら、予想し、アングルを変え、手動のピントを操作するスリルと楽しさは格別だ。
赤いシャッターを押した瞬間、既に逆戻りは不可能で、無情にも、、ジーッというスライド音と共に運命の一枚がカメラを持った指先を追いやるように押し出されてくる。たかだか75㎜スクエアの紙切れだが、その中にあるアナログ情報は極めて多い。撮影者の戸惑いや焦りなどが被写体にオーバーレイするように見えてくるから不思議だ。デジタルカメラはランド博士の発明したポラロイドカメラに次ぐ大発明だが、まだまだその差は大きいと感じてしまう。