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コミュニケーションにおける共有知識モデルについて、デザインの観点から考えていきます

足るを知る/不足を知らず

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かれこれ、20年位前のことですが、外資系CAD/CAMの導入支援をしていた頃、広島にて講演を依頼されました。製品について話すことは、特に問題はなかったのですが、社会的背景に関するいい資料がなく、思い悩んでいました。

何枚も絵を描いては捨てるといったことの繰り返し。何回も描いているうちに、収まりがよくなっていくのは、なぜなンでしょうね。当日の朝、1時間ほどで、以下のチャートを完成させました。

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人間の欲求*は「生きる」ことから始まる。「水を飲む」という行為も、生きるために必要なこと。 生産者側は、この消費者の「生きる」欲求を満たすため、その機能を有する製品を提供していく。

そして、より多くの人々に製品を普及させるため、生産者側は技術力の向上に励み、「大量生産」を実現させる。 結果として、消費者は利便性を享受することになるが、同時に大量消費社会の「負の遺産」をも背負うことになる。 消費者は、そして、大量生産品から離れ、次第に多様性、独自性を求めるようになってきた。

すなわち、人々の嗜好は、対象が何であれ、時代の流れとともに、 「生きるために必要なもの」から、「楽しむために欲しいこと」に変化していく、ということなのだ。 もっとも、「生存」や「安全」への不安を煽って、「必要性」を訴えるビジネスもあるが。

それにしても、消費者の「欲望」と生産者の「競争」の結末は、一体どのようになるのだろうか。

***

先の疑問の結末に関しては、欲求をふたつに分けて、考えてみました。
①「もっともっと欲しい」という好奇心旺盛な人は、価格に関係なく独自性や可能性を追求、
②「足るを知る」という腹八分の人は、初期の欲求状態に戻り、価格と機能のみを追及する。

さらに飛躍して考えると、
・成長過程では、宇宙のような無限の彼方に突き進み、大いなる経験を積み重ね、
・成熟過程では、地球のような有限の地に腰を落ち着け、その経験を後世に伝えていく、
ということではないかと思います。

この「消費者と生産者」の絵が描けなかったら、単に社会的環境を概観するだけで、
それ以上の深みある疑問は沸かなかったかもしれません。

*マズロー:欲求段階説

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