オルタナティブ・ブログ > IT雑貨屋、日々のつづり >

IT業界につとめる「雑貨屋(なんでも屋)」が、業界の事、情報セキュリティの事、趣味や日々雑感を綴っていきます。お暇な方はおつきあい下さい。

ggrksという言葉、ご存知ですか?

»

 佐藤@IT雑貨屋です。

 みなさんは「ggrks」という言葉をご存知ですか?

 まー、あまり綺麗な言葉ではなく、どちらかというと乱暴で粗野な言葉なんですけどね。「ggrks⇒ググれカス!⇒自分でGoogleを使って調べろ!!」という意味なんですが、最近はこんな言葉は使われないのでしょうか。

 インターネットが普及し始めたのは、Windows95が出てからですが、当時の私は何か調べるにもインターネットはあまり利用しませんでした。当時私が何かと利用していたのは「Nifty-Serve」で、そこには掲示板があって、そちらの方が様々な情報が書かれていたんで、何かと調べるにも、当時はそちらを利用していました。

 インターネット上で情報が充実してきたのは、2000年代に入ってからではないでしょうか。それまでは前の記事にも書きましたが、通信の主流はモデムを利用した、アナログ電話回線による低速通信でしたし、検索サイトもGoogleよりはYahooを使っていたりしていた記憶もあります。何より通信速度も遅いのでHPを参照するにも、ひたすら待つという事がありました。人によってはクローラーの様なソフトを使い、夜中に様々なホームページをダウンロードして、今でいうキャッシュ状態で、収集したサイトを昼間に見ていた人もいました。

 ちょっとした昔話をします。

 私は横浜にあったソフト会社に就職して、22歳頃でしょうか。当時はデバイスドライバの担当として、アセンブラを駆使し、場合によってはc言語も駆使してプログラムを得意になって組んでいた頃です。ちょうどその頃、会社では某大手警備会社の見積管理システムを受注し、大手Sierと組んだプロジェクトが立ち上がりました。

 そこで採用となったのが「OS/2 Ver0.9」でした。またPCはIBMのPS/2というタワー型ワークステーションです。

 OS/2と言っても多くの人は判らないかもしれませんが、これはIBMとMicrosoftが共同開発した新OSで、PC上でマルチタスクでプログラムが動かせるという、当時では画期的なOSでした。この後進でPM(プレゼンテーション・マネージャ)というのが後に開発され、IBMとMicrosoftが仲違いした後、Microsoft がPMを拡張した形でMS-Windows1.0が世の中に出てきたと記憶しています。

 私がこのOS/2を初めて触った時、Windowsなんてありません。基本的にはCL(コマンドライン操作)で、タスクマネージャの様な画面でタスクを切り替えながら、CL操作で複数のプログラムを同時に動かせるという代物でした。

 そしていざ開発する。という時に、当然、開発資料はOS/2の日本販売元の大手メーカから貰えるのですが、それを見て愕然としました。ページ数こそ数千ページもある、壮大なマニュアル群なんですが、いかんせん内容があまりにチープ過ぎたのです。もうその内容を見て笑うしかありません。ただ唯一の救いは、共同開発の大手Sierの「歩くCPU]と呼ばれた開発主任が居て、その人がサポートをしてくれるという事でした。基礎的なAPIはその人が開発するので、そのAPIを使って私は担当部を開発すればよいと言われました。

 何せアプリケーションのメインの部分は、既に当時いたその会社の自社パッケージを使うと言うので、ソースコードをOS/2上で再コンパイルして実行プログラムを作れば良いのですが、当時の私の担当は、周辺装置とのインターフェース部分の開発で、それこそOSに関わる部分とか、IBMのPC-AT互換機(当時はそう呼ばれてました)のグラフィック部分やプリンタ制御、モデム制御を担当する訳で、簡単に言えば当時社内にあったその部分のソースコードなんて使い物になりません。

 当時はインターネットなんてありませんし、社内にも有識者なんていません。

 そこで先ほど紹介した、大手SIerの「歩くCPU」の主任のいる神奈川県秦野市の職場に日参して、OS/2やPS/2の教えを乞いながら仕事をしていきました。

 でも教えを乞うてもやはり限界というのがある訳で、当時の私は秋葉原の技術書のある本屋をかたっぱしから渡り歩き、OS/2の資料を漁りまくったのです。今ではGoogleに知りたいキーワードを投げ込むとか、最近ではChat-GPTなんて便利なものがありますが、当時はそんなものはありません。納期が迫りくる中、必死で秋葉原に通い、横浜の本屋も巡り歩き、「歩くCPU」の主任に質問しながら、日々出てくる課題を必死に乗り越えた記憶があります。

 ある時などは、どうもグラフィック処理がおかしく、何かの拍子にPC画面上に「保護違反-Protection mode fail」なんて表示されて、システムがダウンしてしまうバグが発見され、プロジェクト内でも「佐藤!おまぇ~~~!」なんて集中砲火を受けてしまい、調べると「歩くCPU」が作ったライブラリに異常がある様でした。そこで件の主任に電話をすると「私の作成したAPIにバグはあり得ない、佐藤さんのバグだろ!」と言われ、頭に来たというか、生き残りをかけて、みたいな感じで2日間徹夜でデバッグし、「歩くCPU」にダンプリストと逆アセンブルコードをFAXで送り付け、「貴方のプログラム内で起きているんだから調べて欲しい」と言ったところ、「ごめんなさい」という言葉と共に、修正されたライブラリがリリースされた、何て事もありました。

 このプロジェクトは1年半ほどかかり、最後は大団円で終わりましたが、今の私にとっても思い出深い仕事の経験でした。

 当時はGoogleやChat-GPTなんてものはありませんが、問題があったら、まずはとことん自分で調べてみるという、エンジニアにとっての基礎的な力を付ける事が出来たと思います。

 まあ、シニアエンジニア(もどき)の昔話という話題でした。

Comment(0)