ソーシャルジャーナリズムについて考えてみた
先日、NHK BSで放送していたドキュメンタリーWAVE 「沸点~中国ブロガー ネットの中の攻防」を観ました。
グレートファイアーウォールと呼ばれるネット版万里の長城で海外からの情報を遮断し、国内のブログなどを強力な国家検閲で監視し有害(と国家が認める)な情報を排除してゆく中で、様々な手段でインターネット上で情報を発信し続ける中国人ブロガーたちの姿を追ったもので、情報統制のない日本に生まれて、こうして好きなことを書き綴れる幸せを改めてかみしめました。
しかし、一方でジャーナリズムというもののあり方にも疑問を持ちました。
中国では、人権の制限、汚職、隠蔽など我々が見たときに、おかしいと思われる事象や制度がたくさん存在します。
ジャーナリズムはこの場合、自由、清潔、情報公開を求めればいいという単純な図式です。
「人権侵害はダメだ!」と表現すれば、すなわち「自由にしろ」という要求となります。
日本の場合はどうでしょう。確かに「おかしいんじゃないの?」という事象も制度もあるにはあります。
しかし、税や年金の問題といい、原子力の問題といい、単純に反対しただけでは、要求にはなりません。
税を安くして、充分な年金を支給して、原子力に頼らないエネルギー政策は、たしかに理想ではありますが、単純にそうすれば国が破綻するすることくらい、子どもでもわかる理屈です。
従来のジャーナリズムは、批判することによって要求を主張できました。
しかし、今後は対案を示さないと要求にはなりません。
批判することは簡単です。しかし批判だけではその後に残るのは「何も案がない状態」でしかありません。
日本の首相がコロコロ変わるのも、ビジョンの乏しい大企業ばかりになるのも、エッジの効いたサービスや製品が出ないのも、ひょっとすると反対して潰すだけ潰して、その後何も残ってない状態になってしまっていないでしょうか。
日本だけではなく、ギリシャを見るとそう思わずにはいられません。
ソーシャルコミュニケーションは今後ますます力を大きくしてゆくと思いますが、自分で自分の首を締めるようなことにはならないようになってほしいと思います。