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夏目房之介の「で?」

鹿島茂『新版 吉本隆明1968』平凡社ライブラリー

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鹿島茂『新版 吉本隆明1968』平凡社ライブラリー 2017

 初出は2009年。これまでいくつか吉本論を読んだが、どれも今一つ納得できないものがあった。どこか違うと感じる。が、この本で初めて腑に落ちた。鹿島茂は冒頭、若い学生が『言語美』『共同幻想論』を読んで「わからない」という話をふり、自分はそれ以前の論争的文章から入ったと書く。僕もそれに近いが、違うのは、僕は文学青年でもなかったので、それらを読みこなす教養はさらになく、講演集でようやく取っ掛かりを得たということだ。僕の周りの学生も同じように「吉本を読んでもわからん」というので、講演を読めとすすめるのだが、知的教養の高い学生ほど「本格」志向が強いのか、『言語美』『共同幻想論』から入ろうとするのである。僕にいわせれば、あんなのにハナから入ってわかるわけがない。

 本書冒頭の第1章「「反・反スタ思想家」としての吉本隆明」は、見事な切れ味でフムフムとすごくよくわかった。ここでいわれる党派的恫喝のダメさには僕も違和感を感じながら、それを言葉にできなかったし、自分も一時恫喝側に回ったりした経験から、肌感覚的にすっと入ってくるものがあった。ただ、内田樹が解説で喝破するように「どうしてもっとわかりやすく書けないのか」とは本当は僕も思っていた。が、若い頃はそれなりに理由があるんだろうと無理やり考えていた。講演だともっとわかりやすい口語で語ってくれるので、そっちから入ったのだが、吉本の文章はけしてうまいとはいえない。そう思えたのは、わりと最近の話だ。曲折が多く文節が長すぎるのだ。この人、鶴見俊輔みたいに書けないものかと思ったことがある。

 しかし、鹿島も内田も、青学にようやく引っかかったぼんくらアホ学生だった僕と違い、この国ではかなり高い「知的上昇過程」を辿った人たちなので、そもそも文学や思想の教養度が違う。それでも、彼らの語る吉本に共感するのは、やはりそうした知的レベルとは別種の何かがあったからだ。僕にはそれを学生に説明する能力はないが、今後はこの本を薦めればいいのである。やれやれ。

 鹿島は、2章以降、転向論、高村光太郎論の解読に進み、こうなると僕にはなかなか歯が立たないが、それでもある程度理解できる。鹿島の凄いのは、今の学生に伝えるために、様々な最近の事象を参照比較して、その理解を助けてくれるところだ。核心的な部分は、吉本の「下町の中産下層庶民」を離脱して知識人化した出自との関係を論じ、芥川、高村と比較し、さらに鹿島自身もまた似た出自から知識人化したことを実体験を語りながら分析してくれるところだ。ここはすごく了解できるし腑に落ちる。

 読みながら、僕自身もまた、出自の問題を考えた。僕の実家は両親とも大正期都市中間層で、けして下層庶民ではなかったが、祖父のこともあって僕自身は自分だけが飛びぬけて大衆、庶民ではないのか、という畏れを抱いてきたこと(事実、家の中で自分だけ「下町のガキ」だったのだ)、それが自分を形成してきたことを思った。鹿島や内田とも異なるのは、知識化することの後ろめたさは同様にあっても、ちょっとモードが異なっていたのかもしれない。

 鹿島は、吉本のナショナリズム論を分析しながら、現在の「ネトウヨ」現象に言及し、そこに似た構造を見出す。吉本の思想的格闘が、確かに70年代後半以降その歴史社会的基盤を失いつつも、彼の分析のある部分は今でも有効ではないかと彼はいうのだ。るほど、そうかもしれないと思う。その妥当性はそれぞれが考えるべきだとしても、今の若い人が読む価値があると思われる。吉本を論じるために、文化資本や人口学など、ありとあらゆる概念を使って解析しようとする鹿島の力業にも引き込まれる。そして、いくつかの点で「そうか、やっぱりそうか」と納得する箇所もあった。たとえば知識化の過程はただ、いいも悪いもない「自然過程」であると喝破されて「がーん!」となったのは、鹿島だけではなく僕もそうだった。また庶民の感情を救いとるような歌謡などの表現を、そのまま庶民大衆の心象だと読んではいけないという吉本的な方法論も、わからないなりに僕も影響を受けてきた。「大衆の原像」という誤解されやすい概念の分析もとても勉強になった。

 第8章「「大衆の原像」から「自立の思想」へ」では、昨今のアカデミズムでの「漫画、アニメ、映画、テレビ、エンターテイメントなど」への研究領域の拡大は「日本のこうした領域の活動が興隆期、成熟期を経て、衰退期に入ったからこそ可能になった」(同書p.334)と喝破している。これらが「元気に存在している場合には、これを「概念的」に捉えることは難しい」のだと。そして「同じようなことが、吉本のいう大衆のナショナリズムについてもいえ」るのだと続ける。このあたりは見事に明晰で、わかりやすい。

 しかし、これ以上は本を読んで判断してもらったほうがいいだろう。ともあれ、ようやく吉本隆明について理解が進んだ気がする。鹿島先生、ありがとうございます!

追伸

 以前、呉智英氏の吉本批判の本を読んだとき、それはそれで面白かったし勉強にもなったが(呉さんにもそういった)、しかしにもかかわらず、それによって僕の吉本への尊敬の念は1ミリも減らなかった。つまり、その批判は僕が吉本に惹かれたポイントとはまったくズレていたのだと思う。僕にはそれを言葉にする能力がなかった。鹿島さんの本は、そのポイントに初めて触れてくれたのだ。それを一言でつづめていうと、以下の引用になる。

  「自分の得にならないことはしたくないだって? 当たり前だよ、その欲望を肯定するところに民主主義が生まれ、否定するところにスターリニズムやファシズムが生まれるのさ」

  思いきり乱暴に言ってしまえば、吉本はこう断言したのです。(同書「少し長めのあとがき」p.355)

 この吉本の「お為ごかしや偽善」をいわない「倫理的な信頼感」は、階級離脱して知識化したベビーブーマーの大学生の、本当は得にならないことはしたくない的な欲望に感じた負い目に対し、それは即座に肯定されるべきものだと言い切った。そこが大きなポイントだった。

 しかし、鹿島茂が面白いのは、そうした現象を人口動態學を引き合いに出して、歴史的に説いてみせることだ。大正期の人口増加、15歳以上の男子識字率上昇、女子識字率上昇と出産調整(少子化)は、戦後のベビーブーマーと同型だとされる(吉本は大正13年生まれ)。これは僕も知っていた。人口増加と識字率上昇、少子化傾向の世代は、戦争や革命などを社会にもたらすという学説(これは知らなかった)を引きながら、大正期ベビーブーマーの子供達としての戦後ベビーブーマーは、一種の再生産だったと指摘している。

 じつは僕自身も最近、大正昭和初期の文化の再生、やり直しとしての戦後大衆文化ということを考えて、少し書いたりもしていたので、これは非常に刺激的だった。そうか、そこに吉本もからむのか、という驚きがあった。

追伸2

 ところで、鹿島は自分がなぜ吉本にハマったかの背景として自身の下層?中産階級・地方出身者の階級離脱の条件と、吉本思想の下町下層庶民からの知的上昇による離脱経験の省察を重ねています。そして、同じ構造を芥川、高村(彼の場合は江戸職人的「封建的優性」と世界共通性との乖離)に見た吉本を語ります。それ自体は個々の個人の事情としては妥当するかもしれず、面白く読めるのですが、僕の場合は必ずしも同様ではありません。僕は別に一族で唯一の大学進学者でもなければ、文化資本としても本来なら世界共通性の側にすんなり行ってもおかしくない条件だったかもしれないのです。なぜそうならず、むしろ知的コンプレックスに悩んだかは、個別の事情を考察しなければいけませんが(何せお札になった文豪が祖父なので)、長くなるので止めます。

そう考えるとここで別の背景が考えられるように思います。そもそも戦後の60年代までは階層間流動性が著しく高かった時期で、日本の「庶民」全体が底上げされ、それは一応中産階級であった僕の家でも同様だったのではないか、ということです。全体としては可処分所得もあがり消費生活も豊かになり(無論格差拡大も没落もあったでしょうが)、僕らの時代の大学進学率は全体の4分の1ほどまで上がったと記憶します。これが何を意味するかといえば、階級離脱的な現象はじつは中産階級でも同じように起きたと見なせるのではないか、ということです。のちに僕は自分自身を「戦後世代で大量に生じた知的大衆」と考えるようになりました(「知的大衆」という言葉はたしか関川夏央が使ったのだと記憶します)。僕の場合は、この条件下で鹿島や内田と同じハマり方をしたといえるように思います。吉本の知識人論を僕はどちらかというと「半分大衆」である自分の場所から読んでいたのかもしれません。何しろ小学生の頃は完全に落ちこぼれだったので、今にいたるもその感覚は抜けないのですから。

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