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夏目房之介の「で?」

三田平凡寺「我楽他宗」の集団文化について

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鈴木俊幸『[新版]蔦屋重三郎』(平凡社ライブラリー 2012)を読んでいたら、18世紀後半の狂歌、戯作、黄表紙の変容と拡大期の描写の中に、狂歌連中の集団文化についての記述があった。


 〈天明期の江戸狂歌にとって詠歌という行為は必ずしも必須のものではなかったと思われる。狂歌の集まりはすなわち「会」であった。「会」という組織・時空間に求められるものは、必ずしも堪能という要素ではなかった。会内部を他に際だって充実させる能力であった。ありていに言えばいかにその境地に遊ぶかということが第一であったわけで、その遊びにおいては必ずしも狂歌を介する必要はなかったのである。宝合会や手ぬぐひ合会など、狂歌が二の次の催しが狂歌の仲間で行われたし、狂歌に必ずしも堪能とはいえないような戯作者や役者、さらには狂歌を詠まない者まで仲間に加わっていくことになる。天明期の江戸狂歌が様々な人材を吸収し、幅広い活動を展開しえた理由の一つがここにある。(p.104)〉


 三田平凡寺は狂歌の権威だったという。間違いなくこうした「会」を作ろうとしたに違いないと思える。彼の「我楽他宗」は、こうした江戸期「遊び」「趣味」文化を継承再現しようとしたのだと思う。ただ平凡寺は蔦屋のような出版業に進まなかったし、何よりも耳の聞こえない変人の地主であった。それがどうしてあんな全国組織をたばねられたのかは、やはり謎のように思えるが、江戸趣味人文化の影響があったことは否定できない。
 むろん絵ハガキ、写真ハガキの印刷配布、コスプレ集会への夫婦参加、博覧会好きや性思想への傾斜など、明らかに近代、それも大正昭和前期の時代を色濃く反映した集団文化ではあるが、江戸期文化との両義的な現象として見ていく必要はあると思う。残念ながら僕にはそれをやるほどの教養、学識がないが、それが少しでもできるプロジェクトに展開できないかという思いはある。

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