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夏目房之介の「で?」

テプフェールと連続コマによる自動化の快楽 二つの発表のメモ補足

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テプフェールと連続コマによる自動化の快楽 二つの発表のメモ補足

 森田先生、鈴木先生の発表で触発され連想した課題として、描く者の実感からやってくる「自動化の快楽」がある。連続するコマの中で、制作者には「動く」「動かす」体験から表現が自動化してゆく快楽が生まれる。テプフェールにとりわけ感じるのはそれである。ドレやカムの似た形式のものを見ると、そこに制約をかけようとしているようにも感じるが、一方で彼らも、同様の快楽を持っている感触もある。絵を「止める」欲望と、つなげて走る「動く」快楽は同時に並走する。それを使い分けることで物語の強弱、速度の管理・演出が生じる。なので、両者の違いをあまり拡大して理解しないほうがいいのかもしれない。

ただ絵画的な「止め」の欲望は、確かにテプフェールでは他と比較しても振り切られている。その理由として、彼が自身の絵の文学をあくまで「遊び」や「趣味」の範囲で、自らで制御しつつ行っていたからではないか。職業的な「画家」である後継者たちは、その快楽を共有しただろうが、ポイントがやや絵画方向にズレていったのだろうか。

だが、やがてブッシュやフロストに至って、その連続すること自体の速度の快楽が徐々に解放され、連続コマを描くことの自動化の快楽が目的化してゆくように見える。テプフェールの中にある具体的で時代的な現実的要素と(ダンスの種類や観相学の流行、婦人のファッションから決闘の習慣など様々な)描写にもかかわらず、空想的で荒唐無稽な話や挿話の行き当たりばったりな展開(船の蒸気爆発による人々の空中飛翔や箱人間の失踪、水車で回される人物の繰り返し、はしごに登った大勢の人びとの逆方向への倒れこみなど)は、いわば連続コマの中で加速された想像力の無責任な自動化現象といえるのではないか。

無責任に現実を飛び越えるときの快楽は、しかしテプフェールが絵と文字とコマでメディアとして実現したとはいえ、想像力そのものはそれ以前からあったはずである。とりわけ「語り物」の中に、人々を相手に語ってゆく面白さの双方向的な過程に、これら空想的で荒唐無稽なホラ話の、速度と繰り返しやダジャレや韻を踏む快楽があったのではないかと妄想する。

浅学無知ゆえの無責任な妄想かもしれない。そのことを承知の上でさらに妄想してみたい。大衆向けの人形劇(パンチ氏!)とか笑いの演劇、ボードビルなどにそれらがすでに存在したとすれば、日本においても似たような歴史があっただろう。欧米のカリカチュアやカートゥーンを輸入しながら、即座にポンチ~漫画を生み出していったとき、江戸の幻燈、講談や落語、歌舞伎、説教など、多くの先行者が想像力の向こうにいたはずだと思えてくる。

コマの連続は、その想像力に新たな形を与え、やがて欧州で連続写真や映画につらなる技術を引き寄せたのかもしれない。そして日本にやってきた映画は活動弁士という特殊な語り文化を引き寄せる。これ以上の妄想の自動化は、とりあえず喫茶店や飲み屋での与太話に譲る。むちゃくちゃ楽しいけど。

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