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夏目房之介の「で?」

19.10.13青木真也の発言と「死」について

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今夜10時頃からアジアの格闘技イベント「ONEチャンピオンシップ」がテレ東で放映される。深夜枠で毎週同名の番組があって録画しているのだが、そこで青木真也がインタビューに答えて面白いことをいっていた。

3334歳頃まで自分のために戦っていた。でもそれではやりきれなくなる。で、ヒトのためにやってみようと。今はヒトのために戦っている」

「若い頃は明日できるようになる可能性がある。でも、もう自分にはその可能性はない。これまでに持っている資産をどう組み合わせて戦うかしかない。足し算で戦えるうちはめでたいんだけど、引き算で戦うしかなくなると、面白い。今は面白い」

「わりと真面目に、全部使いきって止めたい。で一年くらいで死ねたら、ホントにいいと思っている」

 正確な起こしではなくて記憶で再構成しているが、大体こんな内容だった。彼はまだ30代半ば過ぎで、僕は彼の倍生きている、だけど、似たような感じを持っているので、すごく共感できた。青木はけっこうわけわかんないこという印象があって、相当ひねくれてるなあと思っていたのだけど、独特の回路で思考しているのがこのインタビューでポンと腑に落ちた。

 彼は寝技の天才で、勝つときは完璧に相手の得意な技を封印し、圧倒的に制圧してしまう。だから自分の試合は「面白くない」と断言する。こういう物言いは独特な回路で思考を辿っている人のものだ。

 「引き算で戦うしかない」という認識はとても面白くて、僕などもっとひどい状態だと思うが、面白いのはやっぱり同じように面白い。ただし、ここで今のたうち回っている自分を、半分棺桶に足突っ込んだ自分、「死」の側から眺めている自分が面白がっているのである。「死」は、次第に一種の「救い」としての側面を、歳とともに現し始める。「死」の向こう側の視点を意識し始めたのは40歳代からだが、65歳過ぎると身体感覚でも身近になってきて、できればふっと苦しまずに「死」を迎えられたら、とても幸せだと実感するようにもなる。

 突然の「死」は、周囲の近親者にとってはすごく辛いものだし、残された者の心に場合によって傷を残す。が、ある程度生きてしまって、もういつ逝ってもさほど心残りはないな、と思っている者にとっては、むしろそれは(苦痛が少ないのであれば)「救い」でありうるのだ。だから、もう僕らの歳以上になったら、さっきまで元気だったのが突然逝ってしまうという「死」は、本人にとっては悲しむべきことというより、むしろめでたいかもしれない。

 僕がその領域に達している、とはまだ言い切れない。しかし、かなり近いとはいえる。何だか遺言めいているが、気持ちとしてはそうであって、その日までにできうることをやりたいと、今は思う。青木の気持ちもそれに近いような気はする。だから「止めた一年後に死んだら」という発想が出てくるのだろう。むろん、ヒトの気持ちなど簡単に推測ではできないけど多分ね。

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