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夏目房之介の「で?」

エスカレーターの乗り降り

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「無意識の間」を書いて思いだした。前からちょっと不思議に感じていることで、それ自体は全然たいしたことじゃないのだけども。
僕は、けっこうせっかちで、エスカレーターを歩いて登ることがほとんどだ。下りでも登りでも、エスカレーターの乗り降りで、ほぼ間断なく足をエスカレーターのステップに乗せ、そのままの歩速度で歩くことができる。当たり前じゃん、と感じる人も多いと思うが、たまに乗り降りの前に一瞬止まる人がいる。確認してから乗り降りするのだ。それで、少しだけど人が滞ったりする。
あるときから、何で躊躇するんだろう、と不思議に思うようになった。僕にとっては、乗り降りする以前から視覚情報と歩速度、足の出し方と乗り降りのステップはシュミレートされていて、そこに確認するような要素はないのだが、一度立ち止まる必要のある人が一定の確率でいるのだ。
別に文句をいってるわけではない。多分、そこに人間の行動に関する意識と反応の相関する領域の、けっこう微妙で複雑なシステムの問題があるんだろうな、と思っていたのだ。とくにエスカレーターは、乗り降りの瞬間に加速度が変化するので、そのシュミレーションは複雑なのだと思う。
スムーズに乗り降りできないのは、やはり高齢(僕もそろそろ高齢になるわけだけど)の人が多い。とはいえ、僕より若い人でも、いないわけではない。

スキップをできない人というのがいる。反射的な小脳的運動がシュミレートされていないらしい。この種の運動は、一目みて自然に全体をイメージできて模倣できる人がいる一方で、まったくできない人がいる。そういう人は動きをこまかく分節し、繰り返しの練習でまとめないと小脳が覚えないのだ。できる人は、一連の動きを1単位として覚えており、それを分解して、できない人に教えるのがひどく難しい。
じつは、分節して反復しないと運動を覚えられないことは、十代の頃に僕自身経験した。なので、人よりも運動の習得が遅く、自分は運動音痴なのだと、長い間信じていた。でも、いくつかの運動を覚え、とくに太極拳を始めて、運動の連合を意識の中でどう扱うかのイメージができてから、別に運動音痴というわけでは全然なかったんだとわかった。一言でいうと、心身相関的な連合的運動の領域に、自意識による分節が介入しすぎる現象のような気がする。自意識の分節を捨てて、小脳的な反応の領域に自分を任せる経験が少なかったのだろう。今でも少しそういう傾向があるが、過去にクリアしてきた課題なので、何度か繰り返せばできるようになる。
そんなわけで、多分僕はそういう運動をできない人に教えるのは、比較的うまいのではないかと思っている。自分でも多少似た経験をしているからだ。運動が自然にできてしまう人には見えない領域というものがあるのだ。

で、この問題は、僕にいわせれば、書を書いたり、文章を書いたりすることにも応用できる。文章を書く最小単位、「私は○○だ」という文節から始めて、反復練習と模倣から文章構成にもっていき、作文が書けなかった次男を短期間で作文が書けるようにした経験もある。僕の中では、書や文章も、一種の運動で、身体論の側面を持った領域なのである。
学会で、学生さんと話したときも繰り返しいったのだけど、普段から文章を書いていない人が、いくら資料を集めたからといって論文が書けるわけがない。自分だけが読む日記とかではなく、人にきちんと意味の伝わる文章を恒常的に書く反復練習が必要なのだ。以前、うちの学生には、少なくとも週に1回、千字ほどのレビューを書くことをすすめた。何らかのレビューを書くためには、まず短い要約のスキルと、ポイントをひとつ絞って取り出し、オチをつける必要がある。この訓練が、長い論文にも生きるはずだ。それはテニスの素振りをし、壁テニスをすることと、基本的に同じなのだ。基礎練習をへずにテニスの公式試合に出る奴などいないように、論文も基礎練習なしで書けるわけがない。
ということを、いろんなところで毎度強調するのだが、書ける人はハナからわかってることだし、書けない人は、やらないかぎり実感できないので、結局やらないんだよね。書いてから悩まないと、問題にならないんだけども。

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