映画『ファイナル・カット』
しばらく前にカンで面白そうな映画を録画しておいたのだが、それを観てみた。
『ファイナル・カット』2004年米 監督、脚本オマール・ナイーム 主演ロビン・ウィリアムス
生まれる前から脳に映像音声の有機記憶チップを埋め込む技術により、その記憶を編集して故人の人生を映画化上映するメモリアルが商売になっている時代の話。過去に消しがたい罪の意識を持つ優秀なカッター(編集者)を主人公に、「神のみに許される行為の冒涜」「やがて記憶を見られることで人生が変わってしまう、我々は今を生きているのだ」と主張する反対派と、ある弁護士の記憶を巡って起こるミステリーが筋。暗い映画だが、それなりによくできてはいる。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6649
この主題は、清水玲子の人気連載『秘密』(「メロディ」 99年~連載)と同じである。作品としては『秘密』のほうがよくできていて、面白いと思う。『秘密』は、脳内の映像記憶のみを抽出できるシステムが開発され、警察がそれがあれば解決できる難事件のみを対象に、特別の捜査班によって脳内を覗くようになる近未来という設定で、チップの商業化よりもまだ納得がいく。が、人間の内面を覗かれるという恐怖、それが引き起こす不安神経症的な諸問題には、時代的な切迫したものがあり、共通した主題といっていいだろう。
映画で面白いのは、脳内記憶を走査し、さまざまな記憶を検索、カテゴライズする場面で、映画のフレーム内に乱雑な映像が並行して映る場面。映画フレームと同じ比率の多くの映像が画面を覆う。いわばマンガの基礎画面とコマのような関係で映画映像が作られるのだ。もちろん、この映画にはじまったことではないが、それは混乱した記憶の束として意味づけられ、実際脈絡としては捕らえられない。基本的に二つか三つ以上の画面が同時に映像化されると、映像ではきちんと捕らえられないのかもしれない。
脳内映像なので、映像は当然心理的な影響を受ける。その意味では、両者の記憶映像ともに明瞭すぎるが、そこはお話の要請でいたしかたないだろう。でも、両者ともそこに配慮があって、『秘密』では虐待された母親が角の生えた目鼻口のないのっぺらぼうに記憶されていたり、『ファイナル』では幻覚的な映像を主人公がコレクションしていたりする。
『インセプション』という夢の内部に入る映画も面白かったのだが、やはり映像は明瞭過ぎて、意識の不明瞭さや焦点と周辺のアンバランスまでは映像化されていない。もっとも、そこまでやると相当手の込んだものになり、あるいは実験映画みたいになるかもしれない。3作とも、そのあたりを明瞭に画像化することで、娯楽としてのわかりやすさを保証しているように見える。色々比べて考えると面白いかもしれないな。