オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

自主ゼミで野村正人先生のレクチャー

»

学習院仏文科の野村正人先生にお願いして、ヨーロッパのカリカチュアと風刺画家グランヴィルについて自主ゼミでお話をしていただいた。非常に興味深く刺激的な話だった。フランスでのカリカチュアの歴史中心のお話だったが、佐々木果先生がイギリスの例と比較しながら質疑をしてくれて、どんどん面白くなり、休憩をはさんで2時から6時まで長時間の討議になった。野村先生、長い時間すみませんでした。ありがとうございました。
聞けば聞くほど、当時の風刺画の読み方、貸本流通など、江戸のそれとの共通点が印象的だった。もちろん、17~19世紀にわたるカリカチュアの変化の歴史には、王政と共和制の政治過程、産業革命と印刷の技術革新、市民社会と消費・出版文化の背景があるわけだが、日本の江戸期は産業革命も市民社会もない。ただ江戸の都市部には明らかに消費文化があった。近代市民ではないが、それに相当する大衆消費層があったといえるかもしれない。
では、異なる点は何か。第一には、フランスにおける政治風刺から社会風俗風刺への流れは、固有の歴史社会的条件によるものだ。
が、それ以外に顔の肖像的な再現性への強い傾斜があるのではないかと思う。もちろん日本にも肖像画は古くからあるが、民衆画風刺画の中では、顔が本人に似ているかどうかは重視されない(家紋や服装などで判断する)。江戸後期の写楽の大首絵は例外的だろう。西洋でも、そもそも民衆が政治風刺の対象となる国王や大臣を直接見る機会は少なく、似ているかどうかわからないにもかかわらず、肖像的な再現性が重視されている(新聞で写真が使われるようになるのは、19世紀の末に近い)。野村先生の解説では、国王の顔を入れた硬貨や胸像の存在などが示唆されたが、それとは別にルネサンス以降の絵画の再現性への強い傾斜という文化があったのではないかと思う。
また1936年に大衆一般紙が生まれ売れるまで、新聞は政治的な党派新聞だったという話も面白かった。大衆的需要層の成立を示唆するものであり、発行者が商売上手で嫌われるという話はハーストなど米国の新聞王の話を連想した。
話はさらに線遠近法的な空間の再現性と、そこに文字を並列させることの不合理感、逆に簡略な線画と文字の親近性、西欧での絵と言葉の距離感などにおよび、大変に実りの多い時間であった。イギリス、フランス、米国、日本の17~19世紀の民衆画史を比較できたら相当面白いだろうけど、こりゃもう国際的な学会でも作らないと無理だなあ。

Comment(0)