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夏目房之介の「で?」

馬貴八卦掌講習会は獅子形

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身辺に、いいこともそうでないことも色々と起きていて、しかもこのところ精神的に不安定なところもあり、ヘンな夢みたり寝不足だったり、何となくダッチロールで飛んでいるような状態でありますが。

今回の李老師講習会、会員向けには前回の単勾式(両手を前後に広げ、素早く方向を変えるツバメをかたどるのだそうで)に続き、獅子形(広げた手の一方を頭の上からボールを抱えるように差し伸べる)であります。動きとしては歩法を使って回転する点で単勾式と同じなので、覚えるのは難しくない(ただし腰から下に意識が下がっていないレベルだと、どうしても上半身の手の動きで覚えようとするので、難しい)。手の動きは下盤についてくるので、わりと自然にできるのだ。
が、体の中で下盤にすべてを下げて安定させ、かつ腰から背中をつなげて力感を得るという要求を、それなりに感じるようになっているので、これがうまく実現できないところが難しい。そもそも獅子形を負荷をかけて行うことがなかなかできない。獅子は背中、とくに首を鍛えるのだというのだが、鍛えるにも、まだまだそこに力を通す感覚ができないのだ。いや、だから鍛えるんだけどさ(苦笑)。

あと、先日李老師は、まず第一に「通す」ことが大切で、次に「まとめる(合)」、第三にさらに上のレベルで全体を一致させるんだよ、みたいなことをいわれた。一箇所を一生懸命見ながら動いてはダメで、自分が動いている空間全体を意識して動くのだ、と。そして、調子の悪いときに、人はどうしても気血を丹田に貯めようとか思ってしまうのだが、そうじゃなくて「通す」動きを重視するのが、そういうときには大事なんだとか。
うむむ、何となくはわかるんだが、たぶん「神(しん)」を使うというのは、空間全体を意識して動く要求に関係するのかなあ。でも、とりあえず健康派としては「通す」要求を意識しようかな。

あと面白かったのが、筋骨を気血で充実させ強くするためには「膜」に気血を充実させることが重要なのだ、それで筋骨に気血が充ちていくんだから、という話は前にも聞いたのだが、今回「膜」というのは「見えるもの」「見えないもの」の中間的な存在なんだ、と話されたこと。
「見えるもの」とは筋骨、「見えないもの」とは精・気・神など。この中間? 媒介的な存在ってこと? 筋膜とかは目に見えるけど、見えないものもあるってことなのか。
エドワードに聞いたら「Contain」じゃない?という。よくわかんないので、李老師に聞いたが、正直僕にはよくわからんかった。八戒さんは納得してたけど。ただ、李老師に「膜は、僕らが目にすることができるんですか?」と聞いたら、僕の腹や脇を指して「そこにあるだろ?」といわれた。要するに、ふつうの状態から充実させて膨らませた状態にしたとき、目にみえるが、充実させている何かは見えない、というようなことらしいのだが。違うのか? むむむ。

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