現代マンガ学講義(5) マンガを成り立たせるもの(2)
3)コマと「物語」 『手塚治虫はどこにいる』に沿って
●コマはいかにして「物語」を生成するか?
手塚治虫『ジャングル大帝』の試み 図7「漫画少年」版と学童社版単行本の異動 同上109p
均質なコマ割りとセリフによる説明→不均質なコマ割りとセリフによらない表情の分節(コマ複数化
セリフではなく、表情と動作のカットバックによるレオの「内面」/人間に理解されない見えない心理状態
図8 レオ(感情移入の対象=主体)とケン一(他者)の意識の落差と「事件」のズレ
「漫画少年」版は1状態→2変化(転)→3結果を1コマずつ並列させて「事件」の推移を表象
学童社版は1状態→2変化(転)→3結果(茫然自失、再確認と失望を分節 内面を画像で分節
コマと意味の一対一対応から、人物の内面心理(他者との差異)の複数コマ化へ 心理への感情移入
※ちなみに、現在流通する全集版ではいわば「漫画少年」版に先祖がえりしている 図9 同上119p
「物語」生成のモデル 図10 同上103p 手塚マンガが戦後実現した「物語」への揚力
〈ところで〈物語〉のレベルとはなんなのか、という疑問があると思う。/ここでは〈キャラクターの性格がそれぞれ多様な自意識として実現されたうえでのドラマ=物語〉というような使い方をしている。[略]要するにいいあてたいのは、手塚以前のマンガのキャラクターたちは、どんな波乱万丈な、あるいは完結したお話にあっても、ちっともその一人一人の内面まで表出してくれなかった、だから感情移入の度合いがまるでちがったのだということなのだ〉同上103p プロットの心理効果の大きさ→お話→上位の概念(重層構造)=「物語」
※近代(成長ロマン)小説的「内面」の成立をもって「物語」としている
※戦後マンガの「起源」としての手塚「物語」マンガの成立を証明するためのコマ構造論であること
参照「内面の発見」〈私は[略]「言文一致」という制度の確立に「内面の発見」をみようとしてきた。そうでなければ、われわれは「内面」とその「表現」という、いまや自明且つ自然にみえる形而上学をますます強化するだけであり、そのこと自体の歴史性をみることはできない。[略]私は、風景がいわば[略]外界に背を向けた「内的人間」によって見出されたと述べた。それは、「内的人間」なるものが先にあってそれが風景を見出したということではないし、また、私はそれを心理学的にみているのではない。江戸時代でも、“内向的”な人間はいたし、過剰な自意識をもった人間がいたにきまっているのだ。[略][風景が風景として最初に描かれ、風景に疎外された人間を描いたとされる]「モナリザ」という人物の微笑はなにを表現しているのかと問うてはならない。そこに「内面性」の表現をみてはならない。[略]「モナリザ」には概念としての顔ではなく、素顔がはじめてあらわれた。だからこそ、その素顔は「意味するもの」として内面的な何かを指示してやまないのである。〉柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社文庫88年(「内面の発見」初出78年)76~77p 内面=近代的制度
●マンガ的なコマの構造とは何か? 絵と言葉を分節・統合し、重層的に「時間」を生成する文脈
この構造が、歴史のどこかで「近代的制度」として確立したのでは?