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夏目房之介の「で?」

中島隆氏の「ぐら・こん」裏話

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先日、「COMを語る会」でひさしぶりに再会した中島隆氏は、会場に当時の経緯を書いたメモ「「ぐら・こん」がなくなった日」を配布された。これ、貴重な現場資料だなあ、もったいないなあ、と思って、その後メールで連絡をとり、ブログに載せたいと伝えた。結果、中島氏は文中に登場する人物に許可を取り、書き直した原稿を送ってくれた。これによると、僕は74年の8月か9月の「ぐら・こん」再生会議に参加したことになる。覚えていないのだが、僕は「ぐら・こん」に参加していないし、多分個人的なつながりで参加したのだと思う。大学卒業の翌年で、週刊朝日でカットを書いたりしていた。その後、中島氏を週刊朝日に紹介したり、いろいろ交流したはず。中島氏は、当時の週刊朝日のコラムに紹介記事が載り、米澤氏が載ったのも、僕の紹介だったかもしれない。つまり、そのときに米澤氏や雑賀氏とも初めて会ったのかもしれないな。

中島氏は、竹内オサム氏の個人誌「ビランジ」に原稿を書くようなので、さらに詳しいことがわかるかもしれない。
ところで、手塚賞のとき、竹内さんがびっくりすることを言い出した。僕が、大学卒業の頃に出した『漫画』という自費出版を手塚さんに送ったあと、竹内さんは手塚さんに会い「熱心な人がこういうのを送ってくれるんだよ」といって見せられたというのだ。手塚さんからは、たしかに丁寧に読んだことのわかるハガキをいただいていて、もちろん今でも持っている(ほかに石子順造氏、永島慎二氏からも返事をいただいた)。僕は、おそらく山ほど同じようなものが手塚さんのところに届くだろうと思っていたので、その数年後、手塚さんに初めてお会いしたとき、自費出版本の話をされて、脳天が爆発するほど驚いたのだが、竹内さんの話を聞くと、まだまずらしかったのかもしれないと思う。

それはともかく、以下に5月31日にメールでいただいた中島隆氏の文章をそのまま掲載します。

    「ぐら・こん」がなくなった日

                             元 関西支部長 中島 隆

「ぐらこんをCOMから切り離す。上が決めた」と大塚さんが僕に告げたのが始まりでした。

71年11月の事だったと思います。

その時僕は、「上」はN社長だと思ったのですが、そうではなかったのでは、と今思っています。

切り離すが金は出す、という事で、僕と編集の大塚豊さんで情報誌を作る事になりました。「マンガジュマン」です。

COMに「ぐらこん」のページがあるうちに、と、最後の号に購読者募集を載せました。すると、全国から200通の申し込みがあり、当時COMの発行部数は落ち込んでたのですが、熱心なファンがこんなに居たんだという事がわかりました。それで意を強くして、「ぐらこん」の本の制作に踏み切りました。

大阪に漫研仲間が沢山いましたので、10数人集まってもらい、編集部は大阪に置きました。高宮成河、亜庭じゅん、竹内オサムさんらがいまして、村上知彦さんの協力もありました。

漫画家は、COMの編集部でお会いしたやまだ紫さん、芥真木さんに声をかけ、やまださんが樹村みのりさんを誘って下さいました。そして、雑賀陽平さん、六田登君らは、僕の大阪の友人です。チャンネルゼロは高宮君が呼んでくれました。

「マンガジュマン」は翌年72年4月、7月、10月と3号出しました。2号ではB6、16ページの見本版を作りました。200部なのに、樹村みのりさんが良い作品を描いて下さって、その好意に感激しました。そして、この1年は、東京に行くと大塚さんのアパートに泊りこみ、大塚さんのガリ版で、せっせと「マンガジュマン」作りに励んだのですが、大塚さんがCOMの編集部を解雇になり、デザイン事務所に再就職したので、3号を限りに段々疎遠になって行きます。

結局COMから約束のお金は出ませんでした。マンガジュマンの郵送代がそこから出て居たかも知れませんが。大塚さんに聞かないとわかりません。

僕らは購読料と、皆で奔走して集めた広告料、寄付金でぐらこんの本「あっぷる・こあ」を作りました。12月創刊号ができました。COMから切り離すと言われて1年後の事でした。「COMコミックス」の休刊と同時期で、入れ替わりみたいな不思議なタイミングでした。

大阪のミニコミ誌「プレイガイドジャーナル」社に協力をお願いし、書店ルートを紹介して貰いました。大阪、京都の大書店に置いて貰う事になったので、思い切って1000部刷り、漫画同人誌で初めて書店販売を中心にする事になりました。

翌73年3月に2号を出し、3号の編集をやっていた頃、手塚さんからこんな葉書が僕の家に来ます。「虫通信というパンフレットが東京で発行されておりますから、一寸無理だと思います。何か別の名前を考えて下さい。東京のと混同します。64通信とでもしたらいかが 虫サイン」

虫通信という名にしたい、と言った覚えがなかったので、これも大塚さんに聞いたら解るかも知れないのですが、返事を出さずにしまいました。今になって、「ぐらこん」の事を心配して下さってたのかなあ、と思います。「ぐらこん」の事をどう思われていたのか、聞けるチャンスだったなあ、と。

この頃というのは、ただ一人残った石井編集長が「COM」の復刊号作りをしていた時です。たまたま、何か用があって、僕は池袋の虫プロ商事を尋ねています。初めて応接椅子をすすめられ、石井さんから「協力してくれ」と頼まれました。ところが、その後連絡がなく、手伝う事はなかったのですが、64通信というのは、その事と繋がっていたのかも知れません。そうして、虫プロ商事の不渡りで起こる、虫プロの破綻がもう間近でした。

翌74年1月、4号を出し、再度購読を呼び掛け、1年以上たった、75年春に5号を出しました。この時、スタッフ、執筆者に感謝の意味で全員の名前を裏表紙に並べました。50名にもなりました。本当に沢山の人が力を合わせて作った本でした。全員がボランティアですから、それが誇りです。

そしてこの春は、主だったスタッフが就職した年でもありました。もう一つ、高宮君が、自分は違うやり方でやっていきたいと、方向性の違いをを明らかにしたので、「あっぷる・こあ」が続けられなくなります。

なんとか「ぐらこん」を残したいと願っていた僕は、この年の8月か9月に、東京で集会を開きました。引き継いでくれる人材を集めようと思ったのです。芥さんと六田君は、そういう活動が苦手なようで、頼んだのに当日来てくれません。元九州支部長の原君も大学のクラブがあって来れないと言います。そんな風で、うまくいかない予感の中で、僕は集会場へ向かいました。

せっかく全国から50名、霜月たかなか、米澤嘉博、夏目房之介、亜庭じゅん、雑賀陽平、「ぐらこん」山形の青木さんら、すごい顔ぶれが集まっていたのに、話をうまく持って行けませんでした。すべては、僕の説明がまずかったせいだ、と思いました。

しかし、事実はだいぶ違っていました。その時の僕は知らなかったのですが、わずか4カ月後、「第1回コミックマーケット」が開かれます。だから、その準備の最中だったはずです。霜月さんらは「COM」とも、「ぐらこん」とも決別し、漫画とファンの新しいフィールド作りを始めていました。新たな方途を見つけ、すでに走り始めていた彼らが、僕の話に賛同する訳がなかったのです。

いつまでも「ぐらこん」を担いでいる僕は、頑迷な守旧派に見えたのでしょうか?決して、拘泥していた積りはありませんでしたが、ただ、もっと広い視野で見るべきだったとは思います。漫画ファンは「COM」が無くなっても増え続けていました。アニメとの相乗効果で「COM」が創刊された時とは比べものにならないほどに増えていました。「コミックマーケット」を考えた霜月さんらはそうした変化に気づいていたのだと思います。

話を戻します。集会が失敗した後、僕は、原君と、僕の弟に頼んで「ぐらこん」を継続して貰うのですが、新生「ぐらこん」という名称で、情報誌を2号まで出して終わります。

それで本当に「ぐらこん」はなくなりました。

71年初めに関西支部長になり、その1年でCOMが休刊。COMから離れてから4年。離れてからの方が長い関西支部長でした。

それから僕は、ああすれば良かった、こうすれば良かった、とずっと思い悩んできました。何年たっても悔しい思いが消えない。

それが、去年の初め、霜月たかなかさんの「コミックマーケット創世記」を偶然読んで、自分の思いが少し違う形で実現していた事がわかったのです。それまでは、「コミケ」が何なのかよくは知らず。「何で僕と関係ないんだろう」と不思議に思う程度でした。

霜月さんの本で、「あっぷる・こあ」の編集スタッフだった高宮君、亜庭さんがコミケの創設メンバーだった事もわかり、興奮して読みました。たぶん僕がこの本を一番必死で読んでる読者だろうと思いながら。

で、居ても立ってもいられなくなって、霜月さんに手紙を出しました。霜月さんから電話をもらった時は、本当に嬉しかった。

そうして、僕の机の引き出しに眠っていた手紙や資料を再び見ることになりました。

34年前、東京の集会で会っていたのに、この時にはお互い初対面だと思って話しだしました。

霜月さんは、「COMの遺伝子」という言い方で、「COM」への思い入れを話されたので、「コミックマーケット」とは、そうした思いでつながっているのか、と感動しました。

「コミティア」で謳われている「枠にはまらない、自由で新鮮な個性を持つ作家が腕を試す自己表現の舞台であり、既製品に飽き足らない読者にとってはまだ見ぬ、そして求めていたマンガを発見できる宝探しの山であります」は、僕が思っている「ぐらこん」の精神とほとんど違いません。これが、僕ら世代の認識だろうと思います。そういう場が絶対に必要なものだと、信じたから、こだわり続けたのです。

「COM」という本は、編集方針が定まらず、読者を何度か失望させました。「ぐらこん」も会社にとっては販売部数を増やすためのものという面がありました。また、本部だ支部だと言っても有名無実な面がありました。「ぐらこん」の精神には賛同したけれど、頼むに足りない面がありました。

ですから、虫プロ商事出版部の都合なんかに左右されない、漫画ファンのフィールドを作る必要がありました。「ぐらこん」から、「コミックマーケット」への発展は、それを、漫画ファン自身の企画で実現したという所に価値があります。なんと実行力のあるファンでしょう。「COM」の影響で、ドッと有為な人材が入って来たから可能になったんだとも思いますが、誇りに思っていいんじゃないでしょうか。

そうした行動力とエネルギーが、更なる発展を可能にしていったのでしょう。

「ぐらこん」の精神を作られた真崎守さんはどのように思われるのか、伺いたいものです。僕らの先生は「すこし違うなあ」とおっしゃるのかなぁ、と思ったりします。

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