大城房美、一木順、本浜秀彦編『マンガは越境する』
大城房美、一木順、本浜秀彦編『マンガは越境する』(世界思想社)を送っていただいた。
はじめに 大城房美
第一部 「国境」を越えるメディアとしてのマンガ
1章「〈越境する〉日本マンガ」伊藤遊
2章「グローバル化するマンガ -その種類と感性文化」ジャクリーヌ・ベルント
3章「増殖するマンガ -MANGAは世界にひろがっている」小野耕世
4章「マンガとヴィジュアルカルチャー -描画発達における伝統と革新性」徳雅美
5章「国境を越える少女マンガ -日本の少女マンガと韓国の純情マンガ」金慈恵
6章「〈越境する〉少女マンガとジェンダー」大城房美
第二部 「越境」とローカリティ -記憶・地方
7章「一九七〇年代のまんが -「越境」するメディアへ」村上知彦
8章「地方マンガのポジション -「クッキングパパ」を中心に」吉村和真
9章「望郷するマンガ -「博多っ子純情」におけるふるさと」一木順
10章「沖縄とマンガ -地方から発信するということ」島袋直子
11章「マンガにおける場所と記憶 -「SEX」にみる戦後的無意識と皮膚の欲望」本浜秀彦
まことに興味深いラインナップで、日本マンガの〈越境〉とされる現象を、そもそも「越境」とは何か、「越境」すべき日本マンガとされる側の海外コミック、BDなどは、それほど自明に異なるのか、など本質的な問いを含んで議論が行われていることが伺える。これは、日本マンガという現象が世界化することで引き寄せた国際交流と議論の成果といっていいだろう。
まだほんの数本しか読んでいないのだが、いくつか触れてみたい。
小野耕世さんは日本の海外マンガ賞の話などを織り込んで、日本のマンガ、コミック、BDとそれぞれの違いを見て楽しむ目と、そうした自明の目の呪縛から逃れた観点で同じマンガとして見る目が、ともに重要になっていると指摘されている。長年、海外と日本のマンガを広くとらえてきた小野さんの言葉には説得力がある。
大城さんの論文は、日本の少女マンガが持っていた西欧イメージの援用(金髪、目の色など)が、今どんな経緯で海外にわたっているのかを問う。大城さんには「少女マンガと「西洋」 少女マンガにおける「日本」の不在と西洋的イメージの氾濫について」 (筑波大学文化批評研究会編『〈翻訳〉の圏域 文化・植民地・アインデンティティ』 2004年)という重要な論考があるが、その主題を発展させた形になっている。
「越境」的な特質は70年代日本のマンガに胚胎したとする村上さんのエッセイは、今の時点で「ぼくらのマンガ」を主導した彼が、あらためて当時の状況を描き直したものとして興味深い。僕も同じような作業を進めているので、余計だ。
これらにもまして重要な論の枠組みの問題を提起していると感じたのが、ベルントさんの論文である。グローバルに浸透する日本マンガの現象には三種類あると整理し、そのうちもっともポピュラーになっている『ナルト』などのマンガが、作家でも作品だけでもない、キャラを通した読者の受容消費形態の変化という形で浸透していることを重視。従来の「読書」とうより〈キャラとユーザー、ユーザー同士の関係をめぐる行為が中心的役割を果たしている〉と指摘。そこに世界的な消費文化の現代的変容を見て、グローバルな社会変動と歴史の中に位置づけようと試みる。この観点は、マンガおよびコミック、BDを含めた相互的な変容の中で、いかなる視点から考えるべきかという枠組みの問題を提起している。これからマンガを研究しようという人は、まずは一旦こうした観点の検討を行っていくべきだと思う。
これでまた、うちのゼミで読んでほしい本が増えてしまった。