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夏目房之介の「で?」

卒論の記憶

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八戒さんと話していて、ナゼか卒論を書いたときのことを思い出した。
卒論のテーマは、1919年の五四運動を北京の学資運動を中心に探るものだった。

そもそも僕が中国近代史を専攻したのは、ほとんどサイコロ的な偶然で、ほんとは明治維新をやりたかったのだが、センセイがいないといわれて、中国のことなど何も知らないのに選んだのだった。毛沢東派だったワケでは全くない。

当時、中国近代史をやるというと、基本的に中国共産党の公式見解をもとにやるのが当たり前のような雰囲気で、五四運動も毛沢東の「中国における民主主義運動」(五四運動には参加も発言もしていない魯迅の活動を含めた概念)規定を墨守するべき、みたいな暗黙の了解だったと思う。でも、僕は自分が端っこに身を置いた学生運動というのが何だったのかを知りたかったので、このテーマを選んだのだった(魯迅に興味があったのもあったけど)。懼秋白という、のちに共産党員になる人の五四運動参加とソ連への旅を描いた自伝に「それはまるで決壊したダムのようだった。誰もが中国が病んでいるのがわかっていたが、誰もその治し方を知らず、そのエネルギーが行方もわからず噴き出したのだった」というような記述に(おぼろげな記憶なので相当いい加減)、ああ、そういうものだったんじゃないかと思ったのだ。

で、今から考えれば実力を顧みない、まことに生意気なことなのだが、論文冒頭でいきなり「毛沢東の規定は中国の人々のものかもしれないが、今ここにいる僕らは別の観点で考えるほかない。なので、毛沢東規定とは別に、自分の考え方でやってみまあ~す」みたいな宣言を軽くしちゃったのだった。それについてはセンセイに「どういう意図か?」と聞かれ、説明したら、GOサインをもらった。

記憶のかぎりでいうと、その論文自体はもう全然ダメなボロボロなもので、どうでもいいデキだった。でも、そこで僕が意図したのはたぶんこんなことだったと思う。
五四運動は、中国近代史上はじめてあらわれた近代的大衆運動であり、それによって学生知識人ははじめて「国民」という名の大衆を具体的に目にし、その意識を形成した。その意識が、しかし運動が成功し権力を動かしたのち、学生たちの思惑からすればあっけないほどに対象を失い、運動は霧散した。彼らは巨大な喪失感に陥り、コミューン運動や様々な形を産み、その中に共産党の運動が生まれた。
・・・・・・この後半部は、結局時間切れで論文にはできなかった。おまけに、すごく短かった。
そのとき、僕が見たかったのは、要するに毛沢東や中共のいう「人民」ではなく、具体的な学生たちであり、そこにいた大衆そのものだった。つまり、それは少し前の自分自身でもあったのだと思う。なので、論文のデキとは別に、僕はとても貴重なものを得た。知的な満足感と、研究の面白さ、そして研究者にはなれない自分の資質の認識だ。あとでセンセイから「君の論文は面白かった。大学院に来ないの?」と聞かれたとき、何の迷いもなく「いきません」と答えた。先生方はりっぱで、尊敬できた。だから今でも僕は学問をするセンセイへの尊敬を持っている。と同時に、自分がそういうセンセイにはなれないことも知っている。

僕が今、論文を書こうとする学生に、いつも自分がやりたいと思った個人的な動機の内省と、その気持ちを掴み続けることの重要さを語るのは、そんな経験があるからだ。手塚論なんか、もう個人的な動機の塊だったしね。

追記

瞿秋白「革命のモスクワへ(飢郷紀程)」(増田渉訳『中国の革命と文学2 五四文学革命集」)の卒論での引用部分
〈私たちは社会生活の中にいて、ただ社会が名も知らぬ悪症にかかっている事だけしか知らず、どのようにそれを治療するかは知らなかった、-学生運動の意義はそんなものである、-ただ自分の体験によって、あの不安の感覚はもうこれ以上、じっとしまっておくことができなかったのだ。「変」の要求があって、それで突然爆発して、しばらくまず社会に驚動的な刺戟をあたえたのである。〉
「ダムの決壊」的な表現は、ほかの部分にあったと思う。

また、五四運動理解についてのくだりは、冒頭ではなく結語でだった。
〈どの本も公式の様に通りいっぺんの事しか書いていないのに腹が立って来た。[略]日本の書物の九十%迄が「新民主主義論」[毛沢東]を引用している。しかし、ひとつの流れの中でも既に成立した認識と、認識の成立過程とは自から別である。〉
恐れを知らないなあ。ろくに読んでるわけでもなかったのに・・・・(笑

論文のタイトルは「五四運動の思想的背景 北京の学生運動を中心として」だった。
記憶はやっぱり相当違ってるなあ。まあ30年前だからねー。

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