オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

八卦掌・易筋講習会

»

午後、この夏最後の易筋経の講習会。
ものすごい単純な動作だが、そもそも馬歩の姿勢がきつい(あまり足幅を広げず、大腿はほぼ水平、腰はまっすぐで上体も傾かない「空気椅子」状態!!)ので、その上で質量を全部下に下げ、上体で行うストレッチ的なスジ伸ばし運動は、トンデモナイ負荷がある。李先生は「ふだんは、易筋は20分以上はできない」とかいいつつ前半一時間、易筋。もちろん、ずっとなんてできないので、実際に馬歩でやってる時間はたかがしれてるけど、よく生きて帰ったと思うほどであった。
後半は易筋的な運動を意識して八十八式。なるほど、きつい。

易筋経というのは、僕は知らないのだけど、わりとアヤシゲな中国伝統武術や民間信仰に流布する書物のようで、達磨が書いたとかいわれている。
李先生の説明によれば、しかし、この修法は直接武術でもなく、健身でもなく、むしろ「生命そのもの」といってもいい原理であり、それを毎日修めると確実に自分の弱いところ、矛盾のあることろを解消し、しかるのち強化でき、それこそ「死ぬまで健康」でいられるというのだ。
いや、実感として、たしかにこれは健康丈夫にはなるだろう、確実に。
ただ、やってて辛すぎて、面白みがないので、どうも毎日なんかとてもできないのだ。えてして、そういうもんだよね。

リクツは、まだよくわからない。スジを鍛える、というだけではなく、スジに気血を巡らせて鍛えるためには、じつは「膜」を使わねばならない。易筋は「膜」を練るものらしいのだ。が、先生に「膜」とは何か、と聞くと「色んな定義があって、難しい」という。よくわからんのだ。筋膜なども含むらしいので可視的なものでもあるらしいが、同時にそうじゃないような・・・・。
前回の僕の質問があったからか、今回は「膜」について少し説明されたが、それもよくわからん。まず、人間とは「有形・無形」の両面をもつ、という話しに始まり、有形の筋骨、無形の気血や精神、精気神とかの話があり、どうやら「膜」はその双方を媒介する「概念」のような感じだ。「膜」はとりわけ意識を使わないと練れないのだそうだ。

とはいえ、僕はこれらの説明を全面的に肯定して受け入れるわけでも、全面的に「ありえねーよ」と否定的に見ているわけでもない。なぜなら、これはとりあえず李先生の中で完成された「説明」の理路であり、言葉であるからで、それは李先生自身の現在の身体と技法の「現実」に対応しているだろうからだ。なので、とりあえずはそのまま、いわれたようにやるようにしている。事実、効果はあるしねー。それについては疑問はない。

こういう場合、李先生自身のもっている「現実」が信頼できるとすれば、少なくともその範囲では、言葉もまたそれなりの「根拠」をもつと見なすべきだが、同時に、その説明言語が完全で全てあるはずもない。つまり両者の関係はリニアではない。
とりあえず現状他の言葉が対応していない(追いつかない)としても、こうした(とくに伝統的な)身体技法的「現実」は、つねに僕らの側からは何層ものレイアーで捕らえるしかないものだ。単層で捉えようとすれば、必ず「信か不信」をつきつけるような話になり、もっとも「理解」からも「会得」からも遠い場所にやがて行き着いてしまう。現在の僕らがいる時代と言葉の問題を考えれば、こうした言葉に対する態度は「信」でも「不信」(否定)でもない、と思う。
本質的には異文化間の問題を考えるのと同じ話だと思うんだよね。

書いてたらメンドーな話になってしまったので、今日はここまで。

追伸
八戒氏のブログにも、易筋と書の会の記述あり

追伸2

人に聞いたところ「膜」というのは、生理学的にも途中から腱になったりして、そもそも不分明なものらしい。ちなみに横隔膜は筋肉だそうだ。でも、素人が頭に描く筋肉とはちょと違う組成らしく、筋肉といってもいろんな種類があるのだそうな。

Comment(1)