明日、講演「孫が語る漱石」
明日、「漱石を語る七夕講演会」というのが四谷区民ホールであり、そこで午後2時から僕の講演「孫が語る漱石」、神田紅さん「講談 夏目漱石」というのがあります。全席指定で3000円だそうです。資料的なメモを作ったので、貼り込んでおきます。何点か図版を実物投影機で見せながら、テキトーに落語的な話しになると思いますが・・・・。
「漱石山房を考える会」 2007年7月7日 漱石生誕140年記念 漱石を語る七夕講演会 第一部 講演「孫が語る漱石」 メモ 夏目房之介
1) 早稲田の家と私 久井町 鎌倉市
漱石・夏目金之助 慶應3年=1867年1月5日 東京・早稲田喜
漱石没 大正5年=1916年12月9日 49歳
長男=(父)純一 明治40(1907)年6月早稲田生 漱石没年9歳
孫・房之介 昭和25(1950)年(没後34年)高輪泉岳寺に生
純一 平成11(1999)年2月高輪で没 房之介48歳
→夏目房之介『これから 50代の居場所』講談社 2000年刊
早稲田には縁がなかった 社会人になってはじめて(?)「夏目坂」を認識
早稲田、東大本郷周辺も、30代以降に「孫」取材で巡る
2)漱石山房
漱石公園 銅像 猫と鳩のいた取材
明治40(1907)年本郷より早稲田へ転居 のちの漱石山房
・ 同年、東大などの教職を辞し朝日新聞入社 職業小説家に
(明38年『猫』、39年『坊っちゃん』を「ホトトギス」発表)
月給2百円 年一本百回ほどの小説連載条件 6~10月『虞美人草』
・ 長男・純一生
以後、没年まで早稲田のこの家に住み、十年ほどの作家生活の殆どを過ごす
最期まで借家住まい 漱石山房写真→図1(
「夏目漱石―漱石山房の日々」』 05年 8~9p
〈硝子戸の中から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉だの、赤い実の
結(な〉った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
そのほかにこれと云って数え立てる程のものは殆ど視線に入って来ない。書斎にいる
私の眼界は極めて単調でそうして又極めて狭いのである。[略]
去年から欧州では大きな戦争が始まっている。〉(漱石『硝子戸の中』新潮文庫 52年 5~6p)
芭蕉=バナナの樹と木賊 それを眺める漱石 図2 岡本一平『漱石八態』(同上 46p) 南方の連想
〈無人島の天子とならば涼しかろ〉明治36(1903)年 岩波文庫『漱石俳句集』90 年 130p
新宿区早稲田南町7番地
3)引越
牛込区早稲田南町7番地(現・
〈移転後、神経衰弱はおさまったが、胃病に苦しむ。〉
生家と3~4百メートルの一筋道でつながる。(荒正人『増補改訂 漱石研究年表』集英社 84年 458p
差配の医者が、名刺を見て月40円を35円にする。30円の予定だったが、手を打つ。 (夏目鏡子・松岡譲『漱石の思い出』文春文庫 94年 202p)
総理大臣の給与 明治43年 月2千円(週刊朝日編『値段の 明治大正昭和 風俗史』朝日新聞社 81年 95p)
公務員の初任給 明治40年 月50円 (同上 『続―』81年 159p)
銀行の初任給 明治41年 月35円(大卒) (同上『続々―』82年 69p)
〈夏目にしましても私にしましてもそれほど気に入ったというわけではなく、越した当座こそ狭い所から、急に少しばかりのんびりしたところにきましたので、夏目なども伽藍のようだなどと言っていたものですが、だんだん小さかった子供たちが大きくなるに従って、家が目にみえて狭くもなり、その上の裏側の隣に貧民長屋があって、そこで朝から晩まで夫婦喧嘩があるとやら何とやら、好もしくないことが夥しいのです。垣を結えばその垣をぬいて焚きつけにする、垣から一段低い家の台所を見下ろして何のかんおというものもあるというわけで、あんまり気持ちのいい住家ではなかったのです。〉(前掲『漱石の思い出』203p)
家を買おうかと鏡子が聞いたときも「いやだ」といいつつ〈「しかしこういうあさましいところも世の中にあるてことを子供に知らせるためには、これもいい場所だね」〉(同上 203p)
長女・筆子の記憶
〈「母が強くいってまけさせたんですよ。家主さんは、まけることはまけるが、ほかとの釣り合いがあるから四十円だと外部的にはいってくれ、としつこく頼んでましたが、父は何も嘘をつく必要がないからと、新聞や雑誌の記者さんに聞かれれば平気で三十五円だといってましたね。それで家主さんは困ってましたけどね・・・・」
「[略]光の入り具合が悪く、全体になんとなく薄暗い家で、しかも隙間風がいたるところから吹き込んで、冬などは寒くてたまりませんでした」〉(半藤一利『漱石先生お久しぶりです』平凡社 03年 21~22p)
4)縁側と神経衰弱
書斎をぐるりと囲む縁側(元病院)
〈宗助は先刻(さっき)から縁側へ座布団を持ち出して、日当たりの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいてみたが、やがて手に持っている雑誌を放り出すとともに、ごろしと横になった〉(漱石『門』岩波文庫 38年 7p)
〈この小説は『縁側』と題したいくらい縁側がしょっちゅう登場し、いい役割を果たしている〉〈日本の小市民の家にあった縁側は、小さな庭と住居の中間的存在としてつくられた。〉(半藤一利 前掲書 24~25p)
> 半藤によると、〈部屋数を半分にすれば、宗助の住む家にふさわしいと、漱石は自分の家を見回しながらあっさり観じたのかもしれない。〉(同上 28p)
図3 同上 27p 漱石山房と宗助の家間取り
千駄木の家も、書斎南に濡れ縁 日本家屋の開放性
〈縁側の向こうは小さな庭で、外界とは生け垣でへだたれていた。垣はおおむね、ひとの胸までの丈しかなく、それは通行人の視線をはねかえすためではなく、むしろ結界という象徴的意味をになわされていた。誰でも居間を見ることができたし、居間から外を見とおすこともできた。〉(関川夏央「明治三十八年『猫』の成立」 関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代 凛冽たり近代 なお生彩あり明治人』双葉社 87年 109p
〈ヨーロッパの石の文化がもたらした家屋〉の狭い窓、外界の「窃視」
日本の〈木と紙で造られ、通風と開放性にすぐれた〉家屋
個人主義とプライバシー 漱石の神経衰弱とその治癒過程
図4 関川・谷口『『坊っちゃん』の時代第五部 不機嫌亭漱石』双葉社 97年 304~305p
5)趣味の時間
午前中に仕事を終え、午後は書画を書いたり趣味に費やした
津田青楓に絵を習う ヘタな絵を「わはは」と笑う
父の登場
〈時折、腕白らしい子供が縁側に現れ扉の入口から内を覗き込んで、「いやあ、画を描いてらあ。僕もかきたいなあ。」
「なんだい、空気銃なんか振りまはしやがつて、むかうへ行つとれ。」
漱石先生がさう云はれると、子供は
「画の方が面白いや。津田さんの方が綺麗ぢやないかい。お父さんのはバカデカイなあ。」
「生意気云ふな。むかうへ行つとれ。」
そんな程度でその日は了つてしまつた。〉(津田青楓『漱石と十弟子』世界文庫 48年 74~75p)
図5 津田前掲書 綴じ込み絵 「漱石山房図 漱石と十弟子」