日下部鳴鶴
名前は知っていたし、たしか書を習った最初の頃に楷書を臨書したような気がする。でも、近代日本の書道のお手本になったような書で、興味をもてなかった。率直にいうと「つまんねぇ書だな」って退屈した気がする(いや、それがホントに鳴鶴の書だったかどうか、明確な記憶はないが)。
が、最近、三田平凡寺の主催した我楽他宗の末寺だった高橋敬吉の収集品などを展示する件でこられた方が、その「彦根まちなか博物館」でやっている「日下部鳴鶴展」の図録を送ってくれた。これが、じつにイイんだよねー。面白い! エッグにもっていくとキミさんもいたく気に入り、さらにチューさんも「いいですねー」と感嘆。臨書したくなったね。→例
図録を見ていたら「廻腕法」という筆法が、鳴鶴の写真とともに説明されていて、これが面白い。親指を手前に、他の四指を全部むこうに廻して、巻き込むようにして筆を持ち、ひじを水平に保つ。こうすると筆の垂直が保たれ、力強い線が出るんだという。脇をあけ、腕で円を描くように胸前に丸い空間を作るところは八卦掌の龍形みたいで、これだとたしかに丹田・体幹で書く感じになる。キミさんたちと、こんどやってみよう。
それにしても、書を習いはじめだったら、こんなにハマらなかったろうけど、やっぱり目が変わるんだなぁ。
それから鳴鶴の履歴も面白い。彦根藩士で、ようやく出仕したら、いきなり主・井伊直弼と養父を桜田門外の変で失う。明治維新政府に藩から推挙されて政府役人となり、大久保利通に目をかけられ、出世したと思ったら、こんどは大久保が暗殺される。結局、ここで嫌気がさしたのか、書家として生きることを選ぶ。以後、中国からきた人に廻腕法を習い、中国に渡り、大正11年、85歳で死ぬまで、ものすごい迫力の書を残している。面白い人だ。ただの書家ではない。もともと政治家が野に下って文人となり書をなすのは、伝統的なありようなので、今で言う書家では全然ないんだろうけども。
天保9(1838)年生まれで、明治維新の年に31歳。1922年没。
勝海舟が、1823~1899年。副島種臣、1828~1905年。
木戸孝充(桂小五郎)、1833~1877年。坂本竜馬、1836~1867年。大久保、1830~1878年。短命の多い幕末の志士と同世代なんだね。