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夏目房之介の「で?」

宮原照夫さんが語る漫画編集

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 森下文化センター「編集者が語るマンガの世界」第5回「宮原照夫 私の履歴書ふう漫画編集人生」がありました。いやあぁ~~~~~~~~~~~~~~~~、ホンットに、今日講義を聴けなかった人、ンもったいない! うふふふ。
 宮原さんはマジメな方で、訥々と語られ、ケレン味はないんだけども、びっくりしましたよ。だって、僕も初めて知ったことがポロリと出て、それは他のみんなも同じだったんですがね。講義後の飲み会も、やはりそのあたりで大盛り上がりしました。いやはや、驚いたねー。
 ・・・・って、

ココまで引っ張っといて、書けないのよ。その話は!!! 残念!(笑)
 まぁ、その・・・・いつの日か公表できる日がくるかもしれないし、ね。いひひ。ふふふ。
 ・・・・と、もったいぶるほどのことではない、かもしれないし、そうでもないかもしれないな(笑)。

●面白かったのは、手塚さんの『三つ目がとおる』に関する話。
 宮原さんが手塚さんを訪ねて新連載の打ち合わせをしたとき、手塚さんが「四日前にチャンピオンがきた」といったんだそうで、「四日早かったら(『ブラック・ジャック』は)マガジンだったかもしれない」といってました。冗談でしょうけどもね。
 で、何をやるかという話のとき「手塚先生、もう一度アトムに戻ってください」と注文したそうです。宮原さんとしては「ディフォルメしたものでイイ作品が出ないとマンガが先細ってしまうんじゃないか」と感じたからだとか。
 すると手塚さんは「マガジンは劇画やってきたじゃないですか。何でアンチ劇画なの?」と聞き返し、劇画がらみの質問をいつくか重ねた。で、後日電話があり「会えないか?」と。宮原さんが「いいですよ、来週でも」と答えると、「じつは隣の喫茶店にきてるんだ」。そこで見せられたのが写楽ホースケの絵。
 「(額に)包帯をしたへにゃへひゃのギャグと、シリアスなストーリーの顔なんですよ。これがジキルとハイドなんだというんですね」
 つまり手塚さんは、他でもない「劇画のマガジン」の宮原さんの「もとのマンガ的な作風に戻ってくれ」という依頼に対し、マンガ的なものと劇画的なものの両面を象徴するキャラクターを考えてきた、ということなんでしょう。なるほどねー。ええ話じゃないですか。

●赤塚さんが『天才バカボン』をサンデーに移籍したいといってきたときは、赤塚さん一人できて内田、宮原、担当の五十嵐三氏と話したとか。
 「それは偉いと思いましたね」
 内田さんなどの回想では「わかりました。どうぞ」と、あっさり渡したことになっているが、宮原さんの話ではその言葉の前に、かなりやりあいがあった模様。宮原さんは「赤塚さん、この作品はマガジンで生きるものだからサンデーに移ってもうまくいきませんよ」と説得したが、赤塚さんは固く決意していたようで、最後に内田さんがOKを出したんだそうです。
 そのとき赤塚さんは「大丈夫、僕がやるんだから。失敗したら、地面に頭こすりつけてもいい」といったとか。また、移籍の理由は毎号赤塚特集をするからだという話だったが、じっさいにはなかった。

●ところで、講義中かなりの量の図版を映写しましたが、赤塚さんが連載を始める前に読みきりで『ジャイアントママ』『らくガキ』という作品があって、その絵が映った。で、思い出した。この二つ、とくに『らくガキ』は面白かった記憶がある。印象に残っていた。
 宮原さんは「ストーリーはわかるけどギャグはわからない。編集者はギャグは作れない」と語っておられた。でも、多分武居さんは「俺は作れた」っていうかもしれないと思って聞いてました。

●『デビルマン』はTVアニメ企画が先で、マネージャーからマガジンでやりたいといってきたが、編集長だった宮原さんは断った。「TVとは違うものなんだ」といわれてもやらないつもりだったが、永井さんが占いに凝って方たがえで編集部にやってきた(と本人はいったらしい)ときに、すでに決まっていた主題「実際に悪魔が存在して人間を侵略する云々」を聞いて連載を決めた。

●「ヤングマガジン」は、『気分はもう戦争』を見て「大友がぜひほしい」と思い、大友のために作った雑誌だった。が、宮原氏自身は一年で異動になってしまった。

 などなど、興味深いお話でしたが、例によって講義後の飲み会の面白さにはかなわない。いや、一般の聴講者の方々には申し訳ないんだけど、マァしょうがないですよね、これは。
 だって丸山昭さんが(同じ講談社の先輩ってこともあって)さかんにアオるんだもの(笑)。他にも、出版と不況の問題、海外進出の問題など、じつはマジメな業界話もかなり盛り上がったんでした。ベンキョになったなぁ!

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