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夏目房之介の「で?」

八戒さんブログから、集団について

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 馬貴派八卦掌の同門である八戒さんのブログ「Under the Hazymoon」の[晴れ時々八卦掌] 10月13日の記事に、わしら及び遠藤老師のハラをMRIで検査してみようっていう提案があります。
 八戒さんは品川教室で「練習後の一杯」を楽しむ「不良グループ」の幹事(笑)で、いつもうまメシ食って(八戒さんは食道楽なのでオーダーはおまかせ)酒飲んで、「老師たちのハラの中見たいよねー!」とか話してたんですけどね。それが意外に現実味を帯び始めてたりするんですが・・・・。
 それは、

まぁ読んでもらえればいいので、ちょっと前のエントリとコメントのやりとりについて・・・・。

9月26日「胃腸いい調子?」

 〈ところで、前に述べた伽藍とバザール方式になぞらえれば*1、原理に収束していく学びを伽藍式学習モデル、個人的な経験が並列する学び*2をバザール式学習モデルと名付けることができるでしょう。武術に限らず伝統芸能の世界においては、もちろん伽藍式学習モデルが採用されていました。この方式によれば、一部の者に富と権力を集中させることができますし、また歌舞伎などを見てもそうですが、集中させなければその伝統の存続が危ぶまれるわけです。なぜならその技術は特殊なもので、誰もが学ぶ必要はないため、普及すること自体ができないからです。規模が小さいことを前提とした場合、畢竟リソースの集中が求められる、ということなのかもしれません。〉

 この部分、昔から様々に語られてきた主題でもありそうですが、僕なども似たようなことを「人間と集団」「宗派・党派性の閉鎖系と開放系」など考えてきたような気がします。
 つまり、いろんな比喩が可能なんですが、伽藍とバザールっていう比喩も、相当いいなと思った次第。伽藍はもともと宗教的な権威と原理を象徴すると思うので、空間的にはバザールと同居してたりして、それが有機的にいきかっていたら結構、閉鎖系と開放系がうまく連動する可能性があるんじゃないかな、とか。
 でも、実際には宗教でも党派でも、人の集団はある程度のレベルを過ぎると(いいかえると時間的、空間的に一定の長さ・大きさになると)、密教・顕教、秘密結社・大衆組織の両極を持ち始める。この両極を理論化したのが密教だったりマルキシズムの前衛党論だったりするんだと思いますが。つまり、歴史的に普遍的な人間集団の現象だってことですね。キリスト教もそうだしね。
 伽藍に持ち上げておかないと「原理」の歴史的な継承って難しかったんだろうし、何だかんだ変貌しながらも、それでやっと持続は保ったんじゃないかな。そういう有効性、というより必然性はまず受け入れないといけない。集団が必然的にそうなっちゃうし、それができないと消滅する、という・・・・。

 では、どうやって歴史的に変貌してゆくかっていうと・・・・。
 歴史的なそのときの「現実」から「超越」しないと伽藍的な権威と持続する原理は実現できない。それは歴史的現実そのものが必然的に変貌してゆくとき、自己保存の必要と衝動として伽藍化も機能するので「伝統」の維持、保存にもなる。
 いってみれば、伽藍とその中の思想と活動は伝統化しつつ、バザールの人の流れや商業形態や生活はどんどん変わってるってことですね。法律や社会規範も、大枠、そういうもんのはずです。
 そこで、どこかで再度、あるいは何度も、バザールの「現実」からフィードバックして伽藍の「原理」そのものが「変貌」に合わせてゆく。多分、そうしないと持続そのものが難しい。化石化しちゃうんじゃないかなー。

 このへんは、模式図をイメージするなら、三角形の頂点を「原理a」、底辺を「現実とか社会とかその時代A」ないし「個々の身体」とかに喩え、三角形の上半分を「伽藍」部分、底辺のあたりを「バザール」的部分としてもいい。で、時間的空間的に離れるときに、頂点付近の「原理」部分が、底辺方面と乖離し、切り離されて持続する。いいかえると抽象化されてテキスト化される。しかるのち、別の時空Bに移行して、かぶさる。そこで新たな三角形が形成され、同じ(ように見える)「原理a」(じつは現実Bに対応する「原理a'」)が頂点となる・・・・というようなモデルを考えるとわかりやすい(この模式図を描いてスキャンしようとしたら、ナゼかできなかったので、言葉で説明・・・・意味ねー)。

 ・・・・というとこまで考えて、さて再び八戒さん・・・・。

 〈では、武術、特に中国武術の場合はどうでしょうか。もし必殺の技に基軸を置くのなら、言うまでもなく現在において誰もが必要とするものではありませんので、伽藍式学習モデルが適切かもしれません。武術の心得がなければおちおち道も歩けないような社会を望む人がいるでしょうか? 。。。いたりして。ま、それはさておき、中国武術には、しかし武ではなく、文の要素、健身養生の要素もあります*3。特に内家拳はその傾向が強いわけですね。で、こちらを基軸におくとすると、これは誰もが必要とする蓋然性が高いので、バザール式学習モデルの方が相性がよい、ということになると考える次第です。〉

 という八戒さんの意見。これは、基本的に僕もそうですが、今の社会の「現実」に適合するとすれば、こうなるだろうって考え方だと思うんだね。
 甲野さんなどがやってきたことも、もともと残っている言葉の断片とか、体術として残っているものを身体的に「再現」していって、そもそも「身体の練成そのものが違う」っていう歴史的な変化を推測するに至ったんだと思います。
 つまり、ほとんどテキストの断片としてしか残っていなかった身体的方法を、じつは「今の現実」と縫合したりしながら「再現」したものだろうと。学術的な意味では、これを歴史的身体の再現だと実証することは不可能なので、理論的には「現在の身体としての歴史(伝統)の再現」ということになるんじゃないかなー、とかね。
 また、そういう考え方をすることで、じつは「正統性」「党派的真理」の呪縛を逃れることができる。逃れないと、バザール的な「知」を現在的な意味で開放できない気がするんですね。難しいとこだけどね。
 八戒さんが、註の2に、
〈*2:もちろんこの場合、個々人が自分だけが真理である、と思いこまないことが大切です。〉
 と書いてることにも通じるんですが。

 さらに、八戒さんブログのコメントでは、こんな議論が。

〈# いわと 『僕の経験から言うと、『標準的な原理』はいわゆる『要訣』と言われるもので、『個人差の出るであろう身体感覚の記述』こそが口訣じゃないかと思うんです。個人差の出る身体感覚を教師が判断し適宜アドバイスを加える、『事件は現場で起きているんだ!!』ってヤツが口訣ってわけです。だから口伝えが重要となるわけで……。』 (2006/10/02 15:32)

 これに学者である八戒さんは、

〈口訣というのは本来、口伝えで伝えやすいように覚えやすい字句に整えてあるもので(≒歌訣)、ケースバイケースで変更はされないと思います。〉としながらも〈口伝えを基本にすると、覚えやすいように字句を整える必要があって、そのために、しばしば字句それだけでは説明不十分になり、教える際に解釈を加味することになるのではないでしょうか。[略]口訣に加えられる解釈がその場その場で異なる、ということでよね?[略]だから師と弟子との直截なコミュニケーションに価値があるのであって、口訣自体が重要なのではないんです。いわとさんと僕とで考えていることはほぼ同じではないかと思います。』 (2006/10/02 17:02)〉

 と応じてます。より厳密にいいかえてるわけです。結論としては同じ。
 もう少しわかりやすくいいなおすと、口伝といえども残りやすい言葉の集まりにしないといけないので、歌にしたり、法則性のある簡潔な文字の集まりにしてある。「含胸亀背」とか「意が到れば気が到る」とか、そういう言葉を連想してもいい。
 この言葉を使って、遠藤老師は教室の全員に教え、かつ同じ言葉のそれぞれ異なった援用でもって各個人の課題に応じているはずです。解釈と、その意味するもの(指し示すものごと)の文脈的な重点の移動によって・・・・。僕なら、胃腸が悪かったから、それが楽になる感覚はよすがになりえたけど、もとから胃腸の丈夫な八戒さんは、多分他の指標が必要・・・・とかね。こういう意味のやりとりが、多分、いわとと八戒さんのやりとりしようとしたものの、ひとつの現場だろうと思う。

 価値があるとされる言葉それ自体に「不動の実体的な意味」があり、その一つの真理に向かっていくのだ、と考えるのが旧来の考え方だと思いますが、現在では言葉はそういう成り立ちで社会を流通しない。無理にそうしようとすると、すぐさま硬直した制度化と誤謬に陥る。むしろ、言葉の「意味」そのものをもっと曖昧で不定なものと見なすことで、それが本来もっている「その場の現実への対応の自由さ、可塑性」を重視したほうがいい。
 というのが、つまり現在、バザール的に考えた場合の解きほぐし方だろうと僕などは思うわけです。
 でも〈現在のようにインフォメーションテクノロジーが普及した場合、そうした技術がどう世間に適応していくのかは迷いどころでしょう。〉といういわとの感想は、それだと誤解や誤差が拡大して世間に広まってしまう、という危惧だろうと、とりあえず考えられる。当然そういう危惧が生じるだろうし、それをどう考えるかで、考え方、対処が違う。 僕や八戒さんは、だからといって中途半端に言葉を囲い込んで閉じようとすると、かえって逆に「神秘化」と「誤解」を増殖させるので、今のところ有効と思われるのは、情報を開くことしかないんじゃないのか、というところに帰結します(楽天的に民主的な開放政策がいい、といってるわけじゃない)。
 たとえば自分達の正統性を他に対して主張し、言説をその動機によって閉じてゆくと、必然的に集団を閉じて秘密結社傾向を強めることになる。すると結束は一時的に強まるかもしれませんが、同時に異分子をどんどん排除する。したがって多様性が失われ、流動性の高い現代社会への対応力が弱まります。集団の成長は、求心力と遠心力のバランスによる。つまり原理の力や結束と同時に、それに拮抗する多様性の維持・拡大ですから、これからまだ伸ばしたいと思えば、開いていかざるをえないはずです。
 サイトで色んな人が馬貴派八卦掌について語りあったり、それを読んでいる人が参加してみるとかね。そういう人が10人いれば、そのうち一人は続けるかもしれない。そういう考え方をとるべきで、そうすると会員と非会員の差はグラデーションのように連続したものと見なしたほうがいい。つまり出入り自由な開いた集団を想定したほうがいいので、固定化した会員の固い結束だけを想定すると集団の成長は止まる。
 ま、ここんとこは本当に難しいとこなので、僕も八戒さんも、何が何でも自説に固執するわけじゃないけど、少なくとも自分の中で議論してみても有効な反論を想定できない状態といえます。
 んー。何か、また複雑になってしまった。ま、自分に問いかける問題提起っつことで。

Photo_113 模式図

やっと取り込めた

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