『孫が読む漱石』講演
9月18日(月)午後1時半から神奈川近代文学館での講演「孫の読む漱石」。
エッグでキミさん、マァさんと待ち合わせて、キミさんの車で横浜へ。
途中、キミさんが「やけに混んでるなぁ。これ、間違いなく事故か工事かやってるぜ」ってイラついてた。そしたら、何と吉野家の牛丼目当ての車が駐車して車線を狭めていたせいだった。思わずみんなで「アホか!!」と叫ぶ。何が嬉しくて、
あんなに並んでまで牛丼食べるのか理解できんよ。他にも被害にあった人がブログ書いてたりするが、身近で「エッグファームズの日記」に記事あり。http://d.hatena.ne.jp/Eggfarms/
横浜に着いて、講演の前に館の近くで軽メシを、というので横浜十一番館なるカフェに入る。マァさんはミルクティとホットサンドのセット、僕はクロックムッシュにコーヒー、キミさんがハニートーストtコーヒーを頼んだ。
しばしのち、キミさんの前には、観光客の女の子が喜びそうなアイスクリームの帽子をかぶったプリティなトーストが運ばれてきた。それを見たキミさんの「豆鉄砲くらった鳩」みたいな顔! あんまりおかしかったので、写メ撮ってしまった。写真は「呆然とするキミさん」。
講演は、けっこううまくいった。館の人にも、単行本の担当者にもほめられた。でも、マンガ関係ではけっこう、このレベルの講義、講演してると本人は思ってるんだけどね。漱石関係は本業じゃないからなぁ。
そのあと実業之日本社の担当者とキミさん、マァさんと4人でニューグランドでお茶し、ドイツ料理屋で夕食。ハンガリーのスープ、ソーセージ盛り合わせ、アイスヴァイン、ウィンナシュニツェル・・・・肉肉肉・・・・。それぞれは旨かったんだけどねー。オーダーが日本人じゃないよ、これ。腹一杯。でも、シックで大人なアールデコな内装とルーマニアからきたというバンドのジプシー風の演奏がなかなかよくって、またこようと思っております。今度は、かわいい女性連れでぜひ!(笑)
追記
全体の流れは同じですが、ほとんどアドリブで細部を語っているので、あまり参考にならないでしょうが、レジュメを一応貼っておきます。
2006.9.18 神奈川近代文学館 講演「孫が読む漱石」 夏目房之介
1)『孫が読む漱石』の経緯
祖父漱石についての反撥(10~20代)と受容(30~40代)
漱石没年を越えた孫 父の死 99年
『これから 五〇代の居場所』(講談社 00年 絶版)
解決済みだった漱石問題との意外な再会(02年1月 ロンドン 51歳)
再会の意味→『漱石の孫』(実日 03年)→反響
熊日連載(03~04年 月1回 全18回) →『孫が読む漱石』(06年 55歳)
初めてまとめて時代順に作品を読む 漱石イメージの焦点が深くなった
2)『坊っちゃん』と『うらなり』
小林信彦氏のオファーで対談 「『うらなり』と『坊っちゃん』」(文春「本の話」06年7月号)
小林信彦『うらなり』(文春 06年) うらなりの目から見た『坊っちゃん』の事件と世界の後日譚 東京で30年後に再会する山嵐とうらなり
[うらなり送別会ののち、坊っちゃんに]〈送られて帰るのをありがたいと思いながら、五分刈り[坊っちゃん]が、なぜ私の身を思ってくれるのか、理解しがたいものがあった。堀田[山嵐]にいろいろ聞かされたとしても、この好意はふつうではない。〉同書 83p
山嵐の観点と喜劇化
〈[山嵐・談]「正義は私の側にあると考えても、世間的に見れば、これは私闘です。――ところが、あいつは自分が主人公みたいに思っている。主人公が脇役の戦いを手伝うみたいな意識があったらしい。」[略・卵をぶつけて相手を黄色くした坊っちゃんの話~]
私は笑いを堪えられなかった。いかにも五分刈りらしい仕業に思えたからだ。[略]私から見ても、この事件の中心人物は堀田である。あるいは、堀田と教頭である。五分刈りは堀田の助っ人に過ぎない。その助っ人がしゃしゃり出たために、事件は〈黄色い喜劇(コメディ)になってしまった。〉同書 159~161p
〈表層的には痛快かもしれないが、じつは暗い話の気がするなぁ〉(『孫の読む』84p)
与太郎=語り手としての坊っちゃん 異なる観点から見る事象の相対性
3)『こころ』への疑問
小林氏の『孫が読む』評価
〈軽妙にみえて、ここぞというところは、漱石の「文学論」を引用したり、著者の好ききらいをハッキリ出したりしている。
基本的に、それはぼくの好みと大きくは変わらないが、いままで(というか、戦後というべきか)、漱石作品のベストのようにいわれてきた「こころ」に、幾つかの疑問を投げかけているのが痛快だ。[略]
「こころ」が分かりにくいのは、過ぎた時代への殉死というテーマ以外に、友人から奪いとったほど愛していた奥さんを放ったらかしにして自殺していいのか、勝手すぎないのか、という疑問が残るからだ、とぼくも思う。〉(小林信彦「本音を申せば」407回「漱石と孫と他人」週刊文春 06年5月18日号)
〈あれほど妻を愛していて、しかも妻の心事についてもよくわかっていたように見える先生が、その妻を追いつめて残酷な結果に陥らせるだろう自殺という手段をとったのも、納得しかねるのである。[略]死後の妻がどうなるのかの想像力がどの程度あったんだろうと思ってしまう。[略]妻の事後については他のことと比べてあまり考えていないように思える。〉同書 206p
漱石ジコチュー仮説 相対的な観点の限界 知識人小説 →『道草』『明暗』
4)『明暗』と鏡子夫人
ジコチューと女性像 『坊っちゃん』遠くのおぼろな像=マドンナ
『草枕』知的な対話者「新しい女」 『虞美人草』『三四郎』策を弄する無意識の欺瞞
↓ユーモアの消失
『行人』苛立たせる対象としての女性 『こころ』薄い影のような女性
→知識人主人公の苛立ち、課題の「いいわけ」を語るための素材
↓
『道草』夫婦双方の心事、事情を相互に書こうとする相対性
『明暗』はじめて登場人物各人の居場所(心理)を均等に相互的に書く
→そのかわり知識人主人公(漱石自身の投影)を失う
〈こうした見栄のはりあいと会話の欺瞞を、作者はそれぞれに均等な距離感から描いてゆく。一人の主人公の主観、観察を軸に話がすすむ以前の構成ではなく、小説の観点は人物たちから等距離の中空にぶらさがっている。[略]『明暗』の新境地とは、おそらくこの宙吊りの観点である。〉『孫の読む』255p
策を弄する無意識の欺瞞の女性類型=妻・お延
天然であるがゆえに主人公の欺瞞を直感的に見破る女性=清子(鏡子?
〈ただ貴方はそういう事をなさる方なのよ[略]でも私の見た貴方はそういう方だから仕方がないわ〉→主人公〈成程〉
女性像の分離 漱石内部での鏡子との和解?
自分が他人にとってどんな存在でありうるかを直感的に垣間見る主人公
〈「人を見下して支配しようとする自己中心的な、しかし自分はそうだと思いたくない欺瞞」をはぎとる〉『孫が』259p
〈人は、おおむね自分だけに映る自己像を「ほんとうの自分」と思いこむようにできている。/じつのところ、僕たちは誰でもそういう場所に立ちすくんでいるのだ。〉同 260p
〈本当は、すべての人間が互いにそうやって相手の意識できない姿をみながら、他人にみえている自分の姿をみることができないでいる。自分の眼で直接自分の顔をみることが生涯できないように。人と人のあいだの、この奇妙な関係にふと気づいた瞬間にだけ、人は自分の全体をおぼろげに感じることができる。というより、おそらく自分の全体とは、その瞬間にかいまみる以外に感じることができないものだ。/けれど、そうした瞬間は重要な認識の拡大と深化をもたらしうる。〉夏目房之介『マンガ 世界 戦略』小学館 01年 189p(「世界」を意識したときの日本人の自己像分裂についての記述)
相対的な観点→全体を関係としてとらえる(相対主義=関係主義
作品についても同様 作品の「ほんとう」がわかってゆくのではない
時代によって全体文脈が変化し、作品が別の角度から見えてしまうだけ
他の観点・解釈との並立もありうる=入射反射角の違い