馬貴派八卦掌報告28 遠藤老師の教え方
先日の練習で、遠藤老師が僕とOさんの走圏を見て、
「ビミョーだなぁ~」
と声をあげた。その前に、含胸亀背の姿勢をとり提肛した状態で自分の腰の背面のどこが張っているかを、全員に確認させており、どうやら「張るカ所が命門(腎)のやや上じゃないか」ということみたいだ。じっとしていればともかく、歩くとどうしても上半身に力が入ったり、左右のバランスでふれて、動いてしまうようだ。その日は自分の命門を意識することの重要さに集中した教え方だった。
そして、僕らの腰の感じを首をかしげて思案しながら、
遠藤さんはこんなことを話した。
「いやぁ、自分のことが自分でも、よくわかんないから・・・・」
ここで指摘されようとしたことは、かなり微妙な感覚にかかわるみたいだ。そのあと、全員の前で「馬貴派の練習を始めて5年。すでに私は昔の感覚、どこがどうだからこうしてみようというような感じを忘れてしまっていますから、そこはみなさん、自分で工夫してください。ここが、こう辛かったという記憶はありますが、実感は忘れているので、そこはうまく教えられなくなっているんです」
以前も同じことは聞いていた。
この話、僕は聞くたびに、たまたま今の遠藤老師に教わることの幸運を思うんである。
というのは、遠藤老師という長年中国武術に専心しつつ、一度は挫折し、ようやく馬貴派にめぐり合って日の浅い人に習えることで、僕らはまだ生々しい遠藤老師の苦心惨憺した練功のノウハウを、忘れないうちに教わることができるからだ。
馬貴派には、たしかにいわれるように「他流派で忘れられた練功法が残り、その教授法も完備されていた」のかもしれない。でも、それはおそらく今僕らが習っているような形ではない。もっと伝統武術に特有の形で、であって、けしてそれが現在の僕らにとって効率的だとは限らない。李老師だけから教わっていたら、僕らはこんなに進歩したかといえば、確実に違ったろうと思うのだ。それは(申し訳ないが)カナダや中国で李老師のみから教わってきた外国の人を見ても、そう思う。
では、遠藤老師の何が違うのかといえば、その武術経験と知見、自己反省の深さはもちろんだが、それとは別に「教え方」の違いがある。比ゆ的にいえば、それはモノサシの目盛りの違いではないかと思う。
僕らの今いる段階なんか、おそらくもう忘れ去られた過去であろう李老師の目盛りは、その距離感から今の僕らを見ると大同小異に見えるような、ほとんど10センチひと目盛りのモノサシなんじゃないだろうかと思うのだ。遠藤老師は、それに比べればはるかに僕らに近く、しかし苦労してひとつひとつ乗り越えてきているので、その記憶と実感から僕ら向きにカリキュラムを組くことができ、教授法を工夫できる。いいかえれば微に入り細にいる繊細な目盛り、ミリ単位のモノサシなのだと思う。
また、最初からある程度レベルの高い、一種の完成形を初心者にも求める傾向の強い李老師に比して、遠藤老師ははるかに「当面の目的の仮設定」に集中する。いわば「各個別課題達成型」である。だから、たとえば熊形走圏のねじりは当初重視せず、ひたすら腰を感じることを重視したりする。これは遠藤老師が自分で工夫して練功を進めた経験からきていると、いつも話される。李老師なら、ねじりも腰も両方必要だからというところだと思う。
この二つの教え方は、多分李老師が伝統的な教授法だとすれば、遠藤老師のそれは近代教育法的で、誰でもがある程度の成果を手にしうる効率的な方法だろうと思う。伝統には伝統の良さ、合理性があるのは確かだが、しかし全般に「百人捨てても一人の天才が生まれればいい」という傾向はある。近代教育法にも問題はあるが、しかし、百人いたらそれぞれが30点取れるようになる方法ではある。
いずれにせよ、こうした内家拳系練功の教授法、訓練法の場合、重要なのは体の内感覚的な実感の裏づけ・制御である。そして、その部分で「感覚の記憶」は重要な指標なのだが、遠藤老師がいうように、これはどうやらどんどん失われてしまうのだ。となると、遠藤老師も今後次第に初心者の実感からは離れていく。今まで、そこから僕らに合った教え方が組み上げられてきた、その記憶がなくなってゆくとなると、これから入ってくる人はその恩恵に浴せないことになる。
じつに、この遠藤老師と李老師の教授法の絶妙なバランスが、現在の精誠八卦会の教授内容の素晴らしいところである[註]。李老師がくると、僕らは相当先の課題をいやおうなく試みるように強いられ、その後、日常練習に戻ると、もっとも基礎的な鍛錬を地道に蓄える遠藤老師の教え方に戻る。この両方で、モチベーションも上がり、劇的に進化するのである。正直いって、今、このときの精誠八卦会に参加できるという幸運は、そうそうない。このラッキーな状態が、一体あとどのくらい続くのか、不安になるほどだ。
ということは、遠藤老師の「実感記憶の喪失」は会の今後にかかわる問題なのかもしれないのだ。
まぁ一般的にいって、どんどん練習の進む遠藤老師のかわりに練習の長い者から後進を教えるというのが考えられる方策といっていいだろう。が、じつのところ、練習の内実や質、乗り越えるべき課題は、個々人でかなり異なる。まして、それを「言葉」にして、あるいは絵に描いて「教えられる」かどうかについては、非常に大きな資質の差、あるいは方向や傾向の違いが生じるに違いない(一言でいえば、遠藤老師のような天性の教師なんて、そうはいねぇよってことですが)。もちろん、どんな訓練も似たような問題を抱えており、そういう差異は当然考えられることとして受容する他ないものではある。
でも、初心者の抱える問題を「言葉」に直してゆく試みは、できるだけ多くの(できれば女性の)サンプルがあったほうがよかろうと思う。組織である以上、一定以上の人の出入りは避けられないので、いろんなレベル、様々な質の課題の記述が積み重ねられる必要がある。ブログは、そのとき非常に有効なメディアだろう。精誠八卦会の人も、そうじゃないけどその周辺にいる人も、できるだけ体験的な言葉を記述する試みをしてみてほしいと、僕は思うのだ。
それらが公開されていれば、そこから新たに入ってくる人も多いだろうし、また開かれた議論や意見交換の可能性も広がるはずだ。現代の社会ではこうした情報の共有と開いた組織形態こそが、集団の多様性と生産性を維持するはずだと僕は思う。
・・・・とはいえ、これは「理想論」といわれるだろう。実際には(ことに武術や格闘技の世界では)、それと逆の抑制が常に働くようだ。僕には、その妥当性・合理性がいまだに理解できないし、誰も納得できる理由を教えてくれないのだけれど、その場合、理論的な推測が重要なファクターになるだろうことはわかる。
本当は、少し前に遠藤老師が話した理論の重要性について触れようと思ったのだけど、前提の話が長引いてしまったので、このへんにしよう(組織論としては、この問題は大衆組織と秘密結社のどちらを目指すかという問題になってゆくはずだ)。
なお、この文章については遠藤老師に見ていただきました(その後、少し改稿)。
〈文章拝見しました。
何も問題はありません、その通りなのでどうぞ発表されて下さい。
何が好いのかは解るのですが、少しづつ学び始めたときに直面する疑問や身体の具体的な個々の感覚を忘れ去ってしまっています。
だんだん身体が整うにつれ、細かい問題は大きな完成の一部でしかなくなり全体を通じてしか語れないようになって来ています。
その為、初心者の問題にリアルタイム的に感じて応じるのが難しくなってしまいました。
ですから今後は教室での指導形態を変え、出来るだけ初心者と先輩とが交流できる形にしたいと考えています。〉
とのことでした。
なお、八戒さんのブログ「Under the Hazymoon 」も参照のこと。
「2006-09-26■[晴れ時々八卦掌] 胃腸いい調子?」
註 この二つの方法は、八戒さんが引用する比喩でいうと、伽藍とバザール方式の学習法に対応するかもしれない。伽藍とバザールの対比は、集団のあり方の対比にも応用できるだろう。