馬貴派八卦掌報告27 あらためて走圏の原理?
8月6日(日)、李老師の今回最後の講習会がありました。で、それは徹頭徹尾「熊形走圏」だけの練習で、僕の記憶では初めてのことでした。「走圏に始まり走圏に終わる」馬貴派だけに、精誠八卦会が始まって3年弱の時点でこうした練習をやる意味が何らかあったんでしょう。李老師が「走圏の理論面」というようないいかたで黒板に書いたことは、今までと少し違った説明だったような気がします。
黒板には「昔の人たちが八卦掌をどんな言葉で語っていたかを調べてみましょう」といって、
こんな文字が書かれました。
〈含胸・亀背 → 亀息 吸胯(きゅうこ)・提肛 → 心腎相交 → 結丹
1)糅(字は足偏に采)蛇頭蛇尾 梨牛耕地 旱地抜葱 平起平落 密不透風
2)蹴(字は足偏に易)門坎(門の敷居) 脚心含空 糸崩(張る?)起脚面
3)搓麻縄〉
以下、僕の記憶に解釈を交えた説明。
含胸と亀背は一体のものの表裏で、この練習を続けるとやがて亀息という、非常にゆっくりした呼吸になり、長生きになる。
吸胯(この言葉は初めて聞いた)は両股の脇を締めることで、同時に提肛をする(じっさいは、股を締め、尻っぺたを締めると必然的に肛門を締めて上げることになる)。
この二つのことが「心」と「腎」を近づけ、やがては丹を結ぶことになる。(あとで八戒氏に聞いたのだが、これは「心=火」を下げ「腎=水」を上げて交わらせることを意味するのだという。なるほどー、そういえば易にそういう卦があったなー。→註)
走圏の注意事項には、次のような(段階的な)課題がある。
1)毒蛇の頭と尾をしっかりと踏みつけるように歩く。
田を耕す牛は、けして上に力を上げて歩かない。力は下に向かう。そのように歩く(このへんは老師が見せてくれる姿で納得はするが、じっさい今の日本で田を耕す牛を見る人はいないだろう。僕はバリで見てるけど)
足は、乾いた土地の葱を引き抜くように(抜きにくいらしい)足を上げ、平らに上げて平らに落とす。
このとき、足の隙間に風も通らないくらいに密でないといけない。
2)(1の課題が一応できて、それを失うことがなければ)門の敷居を蹴って破る感じで足を蹴る。このようにしてください(見た限り、後ろの足を上げ、前の足に並ぶあたりの位置から前に力をこめて蹴る。上げた瞬間から勢いをつけて蹴るのではない。もし、勢いをつけて蹴ると、当然上半身が逆にねじれるように反応してしまうと思う。つまり蹴ることで上半身が反動で動くようなら、やめたほうがいいのかもしれない。また、李老師の蹴りは力強いでの、すごく速いように見えるが、じっさいはそれほどではない)。
また、地を噛む足の裏には「空」があり(これは隙間がある、という意味ではなく、密着しつつも噛むことで空のような状態が足裏にできる、という程度の意味に思えた)、上げた足に力が張っていないといけない(?)。
走圏では、じつは両足を地に着いているときが休んでいられる状態である(これも自覚できるまでには、僕はずいぶんかかった。両足ついてるときが楽で、片足のときがしんどいという感覚はわりと最近感じた気がする)。
片足で立って、もう一方の足で蹴るためには、しっかりと地に打ち込まれた力で立つことが必要だ。そのときにこそ、足は鍛えられる(これは最近遠藤老師からもいわれる。しんどいので、つい浮かした足を早く着けようとしがちだが、ゆっくりやることで立っている足が鍛えられるのだ、といわれた。たしかに、それを意識すると僕の場合、くるぶしの周囲の筋がグッと張るのがわかる)。
3)これに関しては、私もまだ十分ではないので、見本を見せられるかどうか不安だが(と、エドワードの肩に手を置いてやってみせた。足を低く力強く進め、タオルをねじってその下に置き、縄をねじるように足を進めるのだと説明)、麻縄をよるように足を進めなければならない。これは非常に難しい。昔の達人は、足を進めるだけで縄をひきちぎるほどの力があったという。
以上、この1~3)に関しては、あとで遠藤老師に確認したが、段階的な課題で、2)を試みることで1)が失われるのでは意味がない、とのことだった。したがって、練習の進んだ人は、そろそろ意識してやりなさい、という程度のことだと思う。
事実、2)を意識してやろうとすると、即座に上半身にも力が入ってしまい、全身が固まってしまう気がする。それでも、何とか上になるべく力を入れずに試みようとすると、むちゃくちゃキツい。足を上げるだけでも大変なほどだ。おまけに蹴ろうというんだから、一歩ごとに息が上がる。見かねた遠藤老師が「そんなに全部力入れちゃったら大変ですよ」といってくれ、少し抜いてようやく続けることができた。あんなの、2時間もできるわけがない。
李老師は、どうやら今回、もっとも重要な走圏について「原理」を伝えようとしたのではないかと思う。今の僕らには3)どころか2)でさえ、できる段階ではないように思えるからだ。ただ、それを目指す必要はあり、一種の「理論的」な里程標として記憶しておきなさい、ということなんだろうか。
註
「未済(いまだならず 未完成)」 下卦=坎(陰・陽・陰)、上卦=離(陽・陰・陽)
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「未済は享(とお)る。小狐ほとんど済(わた)る。其の尾を濡らす。利するところなし。」(易)
易では、坎卦は水(雨)、離卦は火(日)。未完成とは、陰陽がすべて「あるべき場所にない」こと。すなわち、これからすべてが始まるしかない、という意味で、もっとも「良い」ともされる。易経の最後にある卦で、すべてがあるべき場所に収まった「既済(完成)」の卦のちょうど逆。陰陽思想では、陰陽はつねに運動し巡るので、極まってしまう状態を嫌う。したがって「完成」よりも「未完成」がアトにくる。陰陽思想の真髄的な部分を示すようにも思える卦だ。昔、自分で占って何度かこの卦が出たことがあって記憶に残っていたのだ。けっこう、凄い卦だと思う。まぁ、今回の話に符合するかどうか、わかんないけど。
中国では心(心臓?)と腎(腎臓?)が火と水らしく、当然、火は陽、水は陰。それが上下で相交わり、丹田を練ることになるということらしい。おそらく李老師に聞くと「没有関係」というんじゃないかと思う。李老師の話では、すべての典拠は「易筋経」にあるようなので、周易とは離れているかもしれない。でも、基本的に陰陽思想であることは同じなので、その限りでの連想は許されるんじゃないかな、と。