コネクティッドと抽象化技術によるデジタルツインとその先にあるサイバーファーストの世界
公益社団法人 自動車技術会の会報「自動車技術」2021年10月号に寄稿させていただいた記事を、自動車技術会の許可を得てこちらにも転載します。
コネクティッドと抽象化技術によるデジタルツインとその先にあるサイバーファーストの世界
成迫 剛志
1. はじめに
コネクティッド技術によりクルマがインターネットを介してクラウドとつながる時代が到来しつつある.コネクティッド関連の取組みとして,車両データ取得技術,通信技術,データ転送技術,データ変換技術,データ分析技術など,実装のための個々の技術や,またはスマホによるクルマの施錠・解錠や音楽再生などの遠隔操作やカーナビ連携,OTA による車載ソフトウェアの更新など,個別ユースケースに焦点が当てられることが少なくない.一方,インターネットとクラウドの歴史を紐解くと,現在コネクティッド技術で議論されているような個別の技術議論,ユースケース議論だけではなく,インターネットとクラウド,そして抽象化技術によってハードウェアとソフトウェアの分離の技術開発が進み,その結果いわゆるソフトウェアファーストというパラダイムシフトが起こり,さらにデジタルシフトやサイバーファーストによってユーザ価値や社会価値の大きな変化が進行している.これこそがインターネットおよびクラウドがもたらした大きな変革である.
この先行する変革と同じ道を辿り,クルマのコネクティッドを起点とした進化と変革が,以下のように起こるのではないかと考えている.
- コネクティッド関連技術によるモビリティとクラウド連携の進化は,クラウドと IoT の進化の道筋を辿る.
- デジタルツインによって,クルマやモビリティを取り巻くリアル世界のデータがシャドウとしてサイバー空間に「デジタルの双子」として構成される.
- デジタルツインのシャドウは,デジタルの特徴からリアル世界の物理的制約および時間的制約から解放されている.
- さまざまなシャドウ上のデータおよびインターネット上の既存のデータを用いたビッグデータ処理,AI 処理,シミュレーションなどを物理的制約や時間的制約がないサイバー空間で高速に行い,リアル世界に配信し価値を提供する「サイバーファースト」が実現され始めている.
- 車載のエッジコンピュータ(車載エッジ)や交通インフラ,通信インフラ等のエッジコンピュータ(インフラエッジ)をクラウドで用いられているハードウェアの抽象化技術によって,車載エッジ,インフラエッジとクラウドをシームレスなサイバー空間とすることで,モビリティの領域も「サイバーファースト」が実現されていく.
本稿では,これらについて検討を行う.
2. 仮想化技術とクラウドとコンテナ技術が変えた世界
コネクティッド関連技術によるモビリティとクラウド連携の進化は,クラウドと IoT の進化の道筋を辿ると考えている.そのため,まず初めに,クラウドが進化してきた歴史と意義について整理しておきたい.
2. 1 仮想化
ベースとなる技術は仮想化技術である.仮想化技術とは,サーバ,ストレージ装置,ネットワークなどに適用されているハードウェア層を抽象化し,物理サーバを直接利用するのではなく,ソフトウェアによる擬似ハードウェアである仮想サーバとして利用可能とする技術である.この技術によって,例えば 1 台の高性能なサーバ(ハードウェア)を複数の仮想サーバに分割利用することで物理的なハードウェアの台数を削減することができる.また,抽象化によってハードウェアとソフトウェアの依存性を低減することで,高価な高耐久・高信頼なストレージ装置の代わりに汎用的なストレージ装置(ハードウェア)を複数台並べてソフトウェアによって冗長構成化することで,高耐久性・高信頼性を汎用ハードウェアとソフトウェアの組み合わせによって実現することなども可能である.いずれにしても,仮想化技術の適用の初期段階の目的は,ハードウェアの抽象化・仮想化によるコスト削減であった.
2. 2 クラウド
この仮想化とクラウドを同一視する議論もあるが,ここでは仮想化とクラウドを技術的な視点ではなく,利用者の視点で分けて考えることとする.クラウドはさまざまな仮想化技術によって構成されているが,アプリケーション開発者やクラウドサービス提供者など利用者の視点でソフトウェアの実行インフラ環境を比較すると,クラウド登場以前とクラウド搭乗後では大きな違いがある.
クラウド登場以前には,利用者は自らハードウェアを購入し初期セットアップ作業および維持・保守・運用を行うか,またはそれらの作業を代行するサーバレンタル事業者から借りることで,アプリケーション開発やクラウドサービス提供のための環境を整備していた.もちろん,この環境にも仮想化技術が使われることが少なくなく,また事業者によってはそれらを「クラウド」の名称で提供しているケースもあるが,クラウドの本質的な意義はこのような従来の延長線上の進化の歴史ではなく,利用環境の観点での世界を変えた,パラダイムシフトを起こしたことだと考える.
クラウドの多くは,前述のとおりさまざまな仮想化技術によって,ハードウェアとネットワークを抽象化し,ソフトウェアに置き換えており,これはソフトウェア・ディファインド(Software Defined)と呼ばれる.クラウド以前には設備の増設や結線変更などの際には人手による物理作業が必要であったが,このソフトウェア・ディファインドされた利用環境においてはすべてソフトウェアによって行うことが可能となり,またソフトウェアであるが故にほとんどの作業をプログラムによって実行制御したりすることで自動化が可能である. また,クラウド事業者は,多くの利用者に提供するデータセンターおよびハードウェア基盤,そして仮想化した基盤をグローバルな複数拠点にまたがる巨大なひとつの環境としている.このことは,利用者の視点においては,単にソフトウェアによる自動化が実現できただけではなく,仮想化によって物理的制約から解放され,必要な時に,必要な場所で,必要な量のリソースを,抽象化されたサーバ,ストレージ装置,ネットワークを自動的に追加したり削減したりすることが可能となったのである.つまり,リソースやロケーションという物理的な制約から解放され,また,物理的なモノの調達のための時間的な制約からも解放され,圧倒的なスケーラビリティを得ることができるようになったのである.
図1に仮想化とクラウドの違いを示す.
2. 3 コンテナとサーバレス
さらにコンテナ技術によって,さらなるパラダイムシフトが起こっている.前述のクラウドの環境においては,ソフトウェアによって自動化できるのではあるが,利用者は仮想サーバなどの増設などを自ら意識する必要があるケースが少なくない.利用者が提供するクラウドサービスの利用者が増加すれば仮想サーバを増設し,閑散期には削減するなどをソフトウェアによって実施する必要がある.また,ほとんど利用者がいない状態においても最低限の仮想サーバ等を保持し,ユーザの利用に備えなくてはならない.
このような仮想サーバの制約をなくしたものがコンテナ技術によるサーバレスである.コンテナとは,物理サーバを抽象化した仮想サーバとは異なり,アプリケーションソフトウェア視点で抽象化する技術である.アプリケーションソフトウェアとその実行環境(ライブラリ等)をパッケージ化し,アプリケーションの可搬性と俊敏性を実現している.
そして,このコンテナ技術を使って構築されているのがサーバレスである.サーバレスでは,アプリケーションが使われていない場合には,仮想サーバなどをあらかじめ準備し稼働させておく必要がない.ユーザからのアクセスやファイルアップロードなどのイベントが発生しアプリケーションプログラムを実行する必要が生じた際に初めてコンテナが呼び出され,アプリケーションソフトウェアとその実行環境がコンテナとしてロードされ,実行する仕組みである.仮想サーバをあらかじめ準備し保持する必要がないことが,サーバレスと呼ばれている所以である.
このサーバレスによって,アプリケーションソフトウェア開発者はハードウェアの制約,特にユーザ数によって増減させなければならない各種資源の制約から解放され,同時利用者数がゼロから数百万まで対応可能となるなど,まさにユーザ価値を提供するアプリケーションソフトウェアのみに注力することができることとなった.サーバレスにおいては,サーバや OS はすべて抽象化され自動化され,アプリケーションソフトウェアとサーバが完全に分離され,ハードウェアという物理的な制約から解放されている.必要な時に必要な場所で必要なだけ CPU などの資源が割り当てられ,アプリケーションソフトウェアが実行される.また,実行が完了すると自動的に CPU などの資源は即座に解放され,他のソフトウェアの実行に回される.
これまで整理してきたクラウドの進化の歴史を築いてきた主役は,Amazon,Google,Microsoft,そして中国アリババ等である.残念ながら,日本の歴史ある名だたる IT 大企業は,仮想化の段階で停滞してしまい,クラウドにおけるグローバルでのメインプレイヤーとはなれていない.考えられる理由のひとつは,仮想化を単なるコスト削減の手段と考えていたこと,クラウドにおける堅牢性,信頼性,機密性などのリスク面に焦点を当てクラウドではなく自社設備とすべき,という営業的な主張によって「プライベートクラウド」などと称する仮想化の枠の中での取組みに終始してしまい,技術進化や技術の適用が阻害されてしまうこととなった.その結果,クラウドの本質であるパラダイムシフトに追随できなかったのではないかと考える.
2. 4 IoTとデジタルツイン
インターネット第三の波と呼ばれる IoT(Internet of Things)は,これまでクラウド上で生成され蓄積されていた「ヒト」のデータ,例えばスマホからの Web の検索や閲覧,決済処理などのデータだけに加えて,IoT によってインターネットに接続された「モノ」が生成するデータが,クラウドに収集できるようになったことで,さまざまな新たな可能性を生み出している.
「ヒト」に加えて「モノ」も含めたリアル世界のデータがクラウドによって形成されているサイバー空間上に投影されている状態は,デジタルツイン(Digital Twin)と呼ぶ.デジタルツインは「デジタル空間上の双子」という意味であり,「リアル上のモノや環境の状態を収集し,デジタル空間上にデータをコピーし再現する技術」である.そして,サイバー空間上に投影されているデータはシャドウと呼ばれる.デジタルツインのシャドウは,単にリアル世界の「ヒト」と「モノ」をデータとして投影しているだけではない.サイバー空間の特徴である物理的な制約,空間的な制約,時間的な制約から解放され,それらの制約がない状態でのさまざまな処理(ビッグデータ処理や AI ,各種シミュレーションなど)を可能とするのがデジタルツインである. そして,それらの処理で得られた結果をリアル世界に配信し,表示や何らかの機構を作動させ,サイバー空間をリアル世界に反映することができるようになる.すなわち「サイバー空間が実空間(リアル世界)を設計する」ことが可能となってきているのである.これを「サイバーファースト」と呼んでいる(図2).東大の江崎先生は,これを「サイバー空間が実空間に染み出す」と表現している.
冒頭でも述べたとおり,コネクティッド関連技術によるモビリティとクラウド連携の進化は,クラウドと IoT の進化の道筋を辿ると考えている.すなわち,クルマのコネクティッド化について,これまで述べてきたクラウドと IoT の歴史の延長として捉えるべきと考える.現在想定される個別のユースケースへの適用を検討するのみではなく,クラウドと IoT から連続するパラダイムシフトとして捉え,その実装と利活用を考えるべきであろう.
3. 1 車載ハードウェアの抽象化
ソフトウェアでの処理,いわゆるソフトウェア・ディファインドを実現することによって,物理的制約から解放され,サイバーファーストによる「サイバー空間が実空間(リアル世界)を設計する」ことが可能となる.そのためには,車載コンピュータ,各種 ECU,各種センサなどの抽象化が必要である.クラウドの歴史でみてきたように,この車載ハードウェアの抽象化を単なるECU の統廃合によるコスト削減のみを目的とすることなく,パラダイムシフトのための施策として考えることが重要であると考える.
この実装のひとつの形態として,われわれが研究開発している misaki を紹介する.
misaki では,車載ハードウェアの抽象化をコンテナ技術とそれを統合管理するオーケストレータ技術で行っている. 車載ハードウェアをコンテナによって抽象化し,ソフトウェアとソフトウェアが実行されるハードウェアとの分離を行っている.車両に配置された単体または複数のハードウェアを抽象化したひとつの小さな車両内クラウドとして位置づけ,ソフトウェアはそれが実行されるハードウェアを意識する必要をなくしている.ソフトウェアを実行するハードウェアの選択はオーケストレータによって自動的に行われ,選択されたハードウェア上にコンテナとして配信され実行される.実行環境の選択は,各ハードウェアの CPU,メモリ,ネットワークなどリソースの状況によって動的に行われる.また,処理完了後にソフトウェアを含むコンテナは削除され,CPU,メモリなどは解放される.つまり,実行されていないときには CPU,メモリなどの資源を一切消費しないことも特徴のひとつである.
このように車載ハードウェアの抽象化を行うことで,ソフトウェアの可搬性(Write Once, Run Anywhere)が担保されるだけでなく,車載ハードウェアの構成方法にもメリットをもたらす.例えば,新しいソフトウェアの実行が必要となった場合で,すでに搭載されている車載の ECU のCPU やメモリなどの総資源が不足した場合,既存の ECU をより大容量化かつ高性能なものに置き換える(スケールアップする)のではなく,追加の ECU を搭載することで複数 ECU での総資源を増やし,新しい機能の実行が可能となるスケールアウト型の増設を行うことができる. 図3に示す処理能力を 3 倍に増強する例では,スケールアップでは 3 倍の処理能力の ECU にリプレースする必要があるが,スケールアウトの場合,同じ ECU を 2 台追加することで 3 倍の処理能力に増強している.
また,信頼性向上の面では,例えば 3 台のECU を抽象化しておくことによって,1 台の ECU が故障した場合でも,何ら復旧処理などの処理を行うことなく自動的に残り 2 台の ECU でソフトウェアの実行を行うという冗長構成とすることも可能である. 図4の上段のケースでは Ap3 の処理が行われる ECU No.3 が故障した場合,Ap3 は実行することが不可能であるが,下段の ECU が抽象化されているケースでは,ECU No.3 が故障した場合,ECU No.1, 2 によって Ap3 の実行が可能である.
また、例えば車載のセンサのデータを使った一連の処理があったケースを検討する.
Ap1:センサ信号のデジタル化(AD 変換:バイナリ値)
→ Ap2:物理値変換・構造化
→ Ap3:データ解釈・処理
→ Ap4:データ蓄積
図5に示すように,車載に十分な資源がある場合には Ap1 から Ap3 の処理を車載のコンピュータ内で実行し,その後クラウドにアップロードしAp4 を実行する.しかし,車載のコンピュータが非力である場合や他の大きな処理が実行中で当該処理に使える十分な資源がない場合には,Ap1のみを車載コンピュータで実行し,後続の Ap2から Ap4 をクラウド上で実行することができる.このような車載コンピュータとクラウドをまたぐ一連の処理の実行環境の判断と配置はオーケストレータによって自動的に行われる.
misaki ではさらに抽象化を拡張し,車載とエッジ(交通インフラや通信基地局などに設置されたコンピュータ),クラウドをシームレス化し,コンテナとしてパッケージ化されたソフトウェアが必要に応じて動的にどこでも実行可能としている.
このオーケストレータによるソフトウェアの動的な実行制御は,車載からクラウドへのデータアップロード処理だけでなく,クラウドから車載へのデータ転送やプログラムやコンテンツの配信,または車載とエッジとクラウドの 3 層での連携処理,そして複数の車両での相互補完処理などにも適用可能である.そして,同一のプログラムを車載,エッジ,クラウドのどこでも柔軟に実行することを可能としている(Write Once, Deploy Anywhere).つまり,クラウド,複数の車載エッジ,複数の車両コンピュータを含めたすべてを包含したハードウェア群を抽象化したもの全体を広範囲なクラウドと見なし,ハードウェアとソフトウェアを全体として分離し,ソフトウェアディファインドな形態としていると見なすことができるだろう(図6).
これまで述べてきた misaki または類似の実装によって,サイバー空間とエッジ,クルマのどこにでも同一のソフトウェアが実行可能となり,また動的に密連携が可能となる.Write Once, Deploy Anywhere と呼ぶこの環境によって,効率的かつ柔軟なデジタルツインを構成することが可能となる.
3. 2 クルマのデータ
クルマから得られるデータには以下のようなものがある.
車両データ:速度,エンジン回転数,ワイパ動作,ヘッドランプ点灯,位置情報など
操作データ:アクセル,ブレーキ操作,ハンドル舵角,エアコン温度設定,オーディオ再生,カーナビゲーションの設定など
センサデータ(環境関連):外気温/室温センサ,光センサ,降雨センサ,タイヤ空気圧センサ,車外カメラなど
センサデータ(乗員関連):車室内カメラ,シート着座センサ,脈拍などのバイタルデータ,視線や体勢など
3. 3 クルマのデジタルツイン
これらのクルマのさまざまなデータを misakiの概要で説明したような変換処理を行い,クラウド上にアップロードすることで,クラウド上(サイバー空間上)にクルマの情報を投影したシャドウをつくることができる.クルマのデジタルツインである.
クルマのデータを収集し,サイバー空間にアップロードされ,蓄積され,ビッグデータ分析やAI などの処理を行い,クルマに配信され,活用するという流れである.クラウド上にはリアルタイムなデータだけでなく過去の時系列でのデータも蓄積されており,例えば車両データおよび操作データを時系列に分析することができ,かつ外部の事例データなどとともに分析することで例えば故障の予測を行い,クルマに配信し乗員に通知し,注意を喚起するなどの活用が可能となる.この 1 台のクルマのデジタルツインにおいては,車両データのシャドウとクラウド上の他のデータを合わせることで新たな価値を創り,それをリアル空間であるクルマに配信するシンプルなモデルであり,また物理ファーストな事例である.
複数のクルマのデータのデジタルツインとなった場合には,クルマ同士の関係性を含めた分析やシミュレーション,調停をシャドウ上で行い,その結果を各クルマに配信することができるようになる.各クルマの時系列のデータも含めた調整を行うこともメリットである.
例えば,自動運転車同士の車間距離について考えてみる.自動運転レベル 3 が実用化されてきているが,人によって安心できる車間距離というのは異なるのではないだろうか? ある人は自分の車両(車両 A)と前方車両(車両 B)との車間距離を十分にとることを好み,自動運転時の車間距離設定を 120 m としていたとする.そこに追越車線を走行中の自動運転車:車両 C が通りかかったとする.車両 C は車間距離を 50 m としていたとすると,追越車線から走行車線への車線変更時に車両 A と車両 B の車間距離の間に入ることは安全上問題がないと判断して車線変更する.車間距離を十分にとりたい車両 A の乗員にとっては,車両 C が割り込んだことによって安心と感じない車間距離となってしまうこととなる. この車両 A,車両 B,車両 C のデジタルツインがあった場合には,各車両の車間距離設定をも含めてサイバー空間で分析・決定を行うことで,各乗員の意図的な車間距離を確保した各車の走行の全体最適を図ることが可能となる.
3. 4 サイバーファースト
これまでのデジタルツインの活用は,クルマの情報をリアルタイムに収集しアップロードすることを起点とし,サーバー空間上で価値創出する,すなわち物理ファーストであった.これに対して起点をサイバー空間で行うのがサイバーファーストである.先に述べたように「サイバー空間が実空間(リアル空間)を設計する」ことである.
例として,スマホを鍵として利用するデジタルキーを考えてみる.従来の物理的な鍵でレンタカー事業者や知人からクルマを借りることを想定する.
コネクティッド以前の物理的な鍵の場合のプロセスは以下である.
① 貸主は借主に対面で鍵を受け渡す.
② 鍵穴に鍵を挿入する.
③ 鍵穴と鍵が整合していれば,鍵を回すと解錠され,クルマを利用できる.
④ 利用後,借主は対面で貸主に鍵を返却する.その後は借主はクルマを利用できない.
一方、スマホによるデジタルキーの場合は以下である.
① 貸主は借主専用のデジタルキーを生成し,Web やチャットなどで借主に送付する.
② スマホのアプリを起動する.
③ 認証処理が成功すると解錠され,クルマを利用できる.
④ 利用後,借主は Web やチャットなどで貸主に利用終了を連絡する.貸主は,そのデジタルキーを無効とする.その後は借主はクルマを利用できない.
デジタルキーの場合,貸借や認証はすべてサイバー空間上で行われ,解錠のみがリアル世界であるクルマで行われている.起点がサイバー空間ということである.
更にこのケースをユーザ視点に立ち,サイバーファーストで利用シーンを拡張していくと以下のようなことも考えられる.
- 個人個人は,サイバー空間に固有のデジタルキーを所有している.
- クルマや家,オフィス,ホテル,コインロッカーなど,あらゆる鍵は,同一の固有のデジタルキーで解錠可能である.
- 貸し借りはすべてサイバー空間上で可能であり,貸し借りの期間を設定し,実利用時間や利用状況の実績(履歴・ログ)によって,その対価の受け渡し(決済)などもすべてサイバー空間上で実施される.
- また,デジタルキーとともサイバー空間に保存されている個人の好みなどの属性データ(パーソナルデータ)をもとに,クルマのシート位置の事前設定や,予想到着時刻に合わせたエアコンの起動と温度設定を行う.
デジタルキーというサイバーファーストによって,鍵が物理的制約から解放(アンワイアード)され,鍵の管理が現在のプロセスから切り離され(アンバンドル),デジタルツインのシャドウ上にあるクルマ以外の鍵と統合(リバンドル)され,また動的な有効期間設定や実績管理,そして鍵以外のさまざまなデータとの連携をサイバー空間上で行い,リアル空間に反映させていると捉えることができる.
このように,コネクティッドとハードウェアとソフトウェアの分離,デジタルツインによって可能となるサイバーファーストな世界は,これまでのビジネス環境を大きく塗りかえる可能性がある.図7に示すケースを説明する.
旅行に行こうと自家用車に乗り込んだところ故障していて,修理事業者に自家用車の鍵を渡した後,レンタカー店で鍵を受け取りレンタカーで移動,ホテル到着後,チェックインを行い,部屋の鍵を受け取る.デジタルによって物理的制約から解放(アンワイアード)されているデジタルキーによって,鍵の受け渡しというプロセスが修理,レンタカー,ホテルの一連のプロセスから切り離され(アンバンドル),サイバーファーストで完結するデジタルキーサービスとして結合(リバンドル)される.さらに,同様にアンバンドルされているスマホによる予約決済サービスとデジタルキーサービスはリバンドルされる.
このようなビジネス面での変革を起こせる環境が整いつつあるのである.
4. おわりに
これまで述べてきたように,今後のコネクティッド関連技術によるモビリティとクラウド連携の進化は,クラウドと IoT の進化の道筋を辿ると考えられる.クラウドと IoT がそうであったように,その進化は単なる個別のユースケースの対応ではなく,パラダイムシフトを起こし,その結果,私たちの生活や社会,そしてビジネス環境を大きく変革する可能性がある.2 章で述べたように,クラウドの進化の過程で日本の IT 企業は,技術開発面においてもビジネス開発面においても近視眼的な対応に終始してしまい,その結果パラダイムシフトに乗り遅れ,もはや挽回の可能性は極めて低い.しかし,自動車業界においては勝負はこれからである.企業や組織の枠を超えた積極的な技術開発とビジネス開発をオープンに行うことで,本領域においてはわが国がリードし,パラダイムシフトを自ら起こしていく必要があると考える.
参考文献
( 1 ) 江崎浩:サイバーファースト,p. 66 ─78,インプレス R & D(2019)
( 2 ) Seiichi Koizumi:Deploy Anywhere: An End to End Kubernetes based Mobility Service Framework, DENSO TECHNICAL REVIEW, Vol. 25(2020), https://www.denso.com/jp/ja/-/media/global/business/innovation/review/25/paper-03.pdf