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どうして【閲覧注意】に魅かれてしまうのか

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最近、ネットでは様々な写真や動画が自由に公開されるようになり、戦争で撮影されたグロテスクなものや目を背けたくなるような残酷な動画まで、ありとあらゆるものがアップされています。
そういった現実もあるせいでしょうか。
人によっては、見たくないものを見てしまったというショックを受けないように、親切に【閲覧注意】と書いてあるものが増えてきました。

しかし、不思議なものですが、【閲覧注意】と書いてるほど見たくなる。

そして見た後「やっぱり見なければよかったかな」と思ったりしている自分がいます。

怖い映画を、見たくないと思いながら、衝動的に見てしまい、見た後引きずるのに似ています。

どうして、見たくないと思いながら、悲惨なものを見たいと思ってしまうのか?
日本経済新聞「こころの玉手箱」に写真家の立木義浩さんの記事が連載されていましたが、2014年9月5日の記事に興味深いことが書かれていました。


    ・・・・(以下引用)・・・・

人間には「見たくないものほど見たい」という不思議な心の働きがある。たとえばオートレースの映像を見ていて、レーシングカーが急カーブにさしかかる瞬間、事故を期待する気持ちがかすかに起こる。それが人間の心というものである。

 激しく傷んだ人間の肉体はグロテスクで恐ろしい。目を背けたい。なのに、心のどこかではそれを見てみたいとも思っている。古代ギリシャの哲学者プラトンは、不可解な人間の心を見抜いていた。彼はこう記している。「呪われた目よ、楽しめ」と。

 そしてそんなえたいの知れない欲望に応えてきたのが、実は写真なのだ。不幸なもの、悲惨なものを写真家たちは撮影し、人々に見せてきた。写真とはすなわち原罪を負ったメディアであり、写真家とは人間の心の深い闇と添い寝しなければならない職業だといえる。

    ・・・・(以上引用)・・・・

人は太古の昔、動物を捕獲し、解体し、食料として生きてきたというルーツを持ちます。
本能の中に、解体された肉体に対する生々しい記憶が残っているのではないだろうか、と思えて仕方がありません。

子どものころ、平気で虫や小動物を傷つけたり、もてあそぶことをする子が結構いました。
私も、子どもの頃は虫が触れたし、意味もなく興味があったのに、今は触ることさえできません。人生経験で理性が身に付き、心の闇を無意識に封印してしまっているからではないかと思います。自分もしていたくせに、今はそういうことをしている子を見るとおののいてしまいます。

しかし、それは、人間の本来持っているもの。理性で押さえていたとしても、きっかけさえあれば簡単に本能の封印は解かれる可能性もあるように感じられます。

その本能が目覚めたままになってしまうのが、昨今の悲惨な事件につながっているとも思えます。だから、あのような事件を見ると、心のどこかで「何かが間違えば自分の姿であったかもしれない」という、静かなささやきが聞こえてくるような気がします。正義を振りかざし、裁く事が出来ない自分がいるのです。


理性が勝ってしまっているので見ることはほとんどないのですが、やはり本能は残されているのか、【閲覧注意】に魅かれてしまうのです。

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